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ロマニオット(Romaniotes)はヘレニズム時代から2000年以上にわたってギリシアに住んでいたユダヤ人のことである。母語はギリシア語とイェヴァン語。ギリシアのユダヤ人の多数を占めるセファルディム(1492年のスペイン追放以降にギリシアへ定住)とは異なる集団である。 現在非常に少数で、特にギリシア国内にはほとんど残っていない。 ==歴史== ギリシア系ユダヤ人の存在を示す最古の文献はオロポスという小さな町で発見された。それは紀元前300年から250年に書かれたと推測される文書で、奴隷とおぼしき男のことを「ユダヤ人モシオンの息子モショス」と記していた。 ロマニオットは、アシュケナジムともセファルディムとも異なるギリシア系ユダヤ人のグループである。ユダヤ人は、バビロン捕囚の時代にはギリシアに住み、イエスの時代にはギリシアの主要都市に複数のコミュニティを作っていたと考えられる。ロマニオットの伝承によれば、最初のユダヤ人がイオニアに到着したのは、紀元70年、第二神殿破壊の直後のことである。新約聖書によれば、聖パウロはギリシアの複数のシナゴーグで説教していたことがある。 トゥデラのベンジャミンによると、当時のギリシアで最大のユダヤ人コミュニティはテーバイにあり、約2000人のユダヤ人が住んでいた。彼らは染色や絹織物の製造で身を立てていた。当時すでに彼らはロマニオットと呼ばれていた。 1492年、スペインを追放されたセファルディムが、大挙してオスマン帝国支配下のギリシアに押し寄せた。セファルディムはロマニオットよりも裕福で誇り高く、洗練されており、ロマニオットから距離を置いていた。テサロニキは当時世界最大のユダヤ人(大半はセファルディムだった)のコミュニティとなった。テサロニキは、ラビの伝統の中心地ともなった。クレタ島では、ユダヤ人は貿易業界を支配した。 やがてロマニオットのコミュニティは、強大なセファルディムに呑み込まれて同化した。同化を免れた少数のロマニオットはイピロス地方のヨアニナや米国に生き延びた。ロマニオットの風習はセファルディムとは全く異なっていた。セファルディムの言語はラディーノだったが、ロマニオットの言語はギリシア語に由来するイェヴァン語だった。ロマニオットの学者たちは、タナハをギリシア語に翻訳した。 20世紀初頭には、ヨアニナのロマニオットは約4000人を数えた。大半は身分の低い行商人や職人だった。貧困を苦にして国外に移民する者が後を絶たず、第二次世界大戦の直前には、ヨアニナのロマニオットは1950人に減っていた。市街地の中心にあった2つのシナゴーグのうち1つは今日もなお残っている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ロマニオット」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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