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ロマノス1世レカペノス(ギリシア語:, 870年 - 948年6月15日)は、東ローマ帝国マケドニア王朝の皇帝(在位:920年 - 944年)。マケドニア王朝開祖のバシレイオス1世同様、アルメニア人農民の子として生まれ、海軍の士官として出世、帝国海軍の司令長官(ドルンガリオス・トーン・プロイモン)となった。 917年、コンスタンティノス7世の母で摂政のゾエ・カルボノプシナがブルガリア帝国と戦って敗れ、その権威が失墜すると、ロマノスは919年の3月にクーデターを起こしてゾエ・カルボノプシナを追放。娘ヘレネをコンスタンティノスに嫁がせてその義父となり、9月には副皇帝、12月には共同皇帝となり、帝国の実権を掌握した。そして920年12月には、自ら正皇帝として即位し、コンスタンティノス7世を共同皇帝へ格下げしたのである。 即位後は、巧みな婚姻策によって貴族との結びつきを強化し、レカペノス家による帝位の世襲化を図った。また、宗教上の政策から教会との関係も深め、その経緯から933年にはロマノス1世の末子・テオフュラクトスが総主教となっている。対外においては、ブルガリア帝国のシメオン1世が侵攻して来るが、ロマノス1世はクロアト族と結びあうことでこれを撃退し、927年にシメオンが死去すると、ブルガリアと和睦を結んで帝国西方の国境を安泰なものとした。一方、東方に対しても名将・のもと、イスラム勢力に対して攻勢をかけ、東方に大きく勢力を拡大することに成功したのである。 941年、:en:Rus'–Byzantine War (941)でキエフ大公国にコンスタンチノープルが攻撃された。 しかし931年、期待していた長男のクリストフォロスが父に先立って早世すると、ロマノス1世は世襲をあきらめて、944年にはコンスタンティノス7世を帝位継承者として指名した。ロマノス1世には、クリストフォロスのほかにもステファノス、コンスタンティノスといった実子がいたが、ロマノス1世は彼らを無能と評していたため、継承者から除外したのである。ところが、この継承に対して二人の実子は不満を持ち、944年にロマノス1世は帝位を追われてマルマラ海のプリンキポス諸島(現在のプリンスィズ諸島)へ追放され、修道士にされてしまったのである。 さらに二人は、コンスタンティノス7世をも排除して帝位を我が物にしようとしたが、民衆の支持を得ていたコンスタンティノス7世の排除には失敗し、逆に捕縛されて追放されてしまった。こうして、コンスタンティノス7世が正皇帝として復位することとなった。 ロマノス1世は948年6月15日、孤独な修道士として死去した。レカペノス家の名はその後東ローマ帝国の歴史には登場しなくなるが、ロマノスの庶子で宦官となったバシレイオス・ノソスはコンスタンティノス7世の息子ロマノス2世の治世から、バシレイオス2世によって追放されるまで、事実上の宰相として行政を司り、権勢を誇った。 ==脚注== 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ロマノス1世レカペノス」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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