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日活ロマンポルノとは、1971年から1988年にかけて日活(1978年に社名変更し、にっかつ)で製作された成人映画のこと。 1950年代後半、様々な悪条件下で映画製作を再開した日活は多くのヒット映画を送り出し、日本映画の黄金時代を支えた。ところが、1960年代後半から次第に映画の観客数減少や経営者のワンマン体質などで経営難に陥り、映画製作が困難になった。そこで、ダイニチ映配時代の中心作風だった「エロ路線」を前面に押し出し、かつ採算面から低予算で利益が上がるジャンルの作品として、成人映画を主体に変え、「日活ロマンポルノ」が誕生した。当時の関係者の証言によれば、それまでの日活で製作した一般向映画よりも、収録期間や製作費などは半分以下であったという(実際、路線が発足したばかりの頃、社内ではロマンポルノは「小型映画」と仮称されていた〔『日活ロマンポルノ異聞―国家を嫉妬させた映画監督・山口清一郎』 鈴木義昭著、社会評論社、70-71頁〕)。 == 概略 == 1971年当時、日活はワンマン社長であった堀久作社長が電撃退陣し、これと同時に壺田重三常務ら堀の側近も事実上追放し、その放漫経営の後始末に追われていた。国内映画会社各社の映画制作システムもまた急激に衰退を迎えていた時期であり、この年、日活以外でも東宝が専属俳優の解雇を実施し、年末も押し迫った12月末にこの年の夏まで日活と配給を組んでいた大映が破産するという惨状であった。1953年から足掛け18年にわたって続いた五社協定が最終的に崩壊したのも、この1971年のことである。この様な暗黒時代の映画界で会社を生き残らせ社員を食わせるために、日活はメジャー映画会社の一角でありながらポルノ主体の路線へと舵を切った。その様な厳しい状況下では、日活に籍を置いていたキャリアの浅い若手の映画人たちの多くも退社したところで行き場もなく、ロマンポルノに活路を求めて足を踏み入れていくしか選択肢がない状況であった。 ロマンポルノは1971年11月にスタートし、『団地妻 昼下りの情事』(白川和子主演)と、『色暦大奥秘話』(小川節子主演)が第1作であった。その後、谷ナオミ(初代SMの女王)、田中真理、宮下順子、原悦子、泉じゅん、鹿沼えり、東てる美(『渡る世間は鬼ばかり』レギュラー)、高倉美貴(3代目SMの女王)、朝比奈順子、風祭ゆき、水原ゆう紀、美保純、可愛かずみら、多くのスターが生れた。後にピンク映画→ロマンポルノ出身の白川和子・宮下順子・東てる美・朝比奈順子・美保純らがテレビでも活躍するようになり、芸能界へのステップと考える女優も多くなった。 "ロマンポルノ"という言葉は、同年7月に公開された東映ポルノ『温泉みみず芸者』(鈴木則文監督)で日本で初めて使われた"ポルノ"という言葉を〔ポルノ女優第一号を創った男たち/春日太一 - 筑摩書房 PR誌 、セクシー女優のあの興奮をもう一度! | アサ芸プラス 〕拝借して作ったもの。興行は通常は3本立て2週間興行の体制を基本とし〔「生きつづけるロマンポルノ」公式HP トップページ | 日活100周年 | NIKKATSU 100th Anniversary 〕、2本が自社製作、1本が買付け作品であったが、正月映画およびお盆映画は大作2本立てによるロングラン興行が行われた。上映館は旧ダイニチ映配の崩壊後に日活系として残った旧来の「日活系」が主であり〔ダイニチ映配発足後には、配給網の統合に伴い、その地区にあった大映系と日活系のどちらか一方に封切館が集約され、あぶれた方が旧作やピンク映画の上映で食いつなぐケースが見られた。静岡市にあった「静岡日活」のように、一旦は「静岡日活」の名称のままでOPチェーン(大蔵映画)傘下に入りピンク映画封切館に転身しながら、「並木座」と名を改めた後ダイニチ映配の崩壊とロマンポルノ発足をきっかけに日活系へ復帰したケースもある。〕、これには日活の直営館だけでなく、傍系の太陽企業の経営による「日活系」映画館も含まれた。なお日活では、ロマンポルノの発足を機に、成人映画の上映に適した「ミニ劇場」の新設を全国で推進し始めた〔『映画年鑑 1973年版』 時事映画通信社、110頁〕。 しかし、ロマンポルノには創作上のメリットもあった。予算も限られ短納期の量産体制という厳しい環境ではあったが、後にある映画監督が、「ロマンポルノでは裸さえ出てくればどんなストーリーや演出でも何も言われず自由に制作できた」と語ったように、「10分に1回絡みのシーンを作る」「上映時間は70分程度」「モザイク・ボカシは入らない様に対処する〔現代のアダルトビデオならモザイクやボカシで済ませてしまうシチュエーションでも、カーテンや机などの小道具の配置や照明効果、カメラワークなど、映像側の創意工夫で巧みに処理することが求められた。〕 」〔など所定のフォーマットだけ確実に抑えておけば、あとは自由な作品作りを任された〔。キャリアの浅い監督や脚本・演出の担当者にとっては自身の作家性を遺憾なく発揮できる稀少な場であり、結果論ではあるが、日活にとっても斜陽期の邦画界の中にあって崩壊してゆくスタジオシステムを維持し続け、映画会社として若手クリエイターの実践的な育成を手がけるための重要な場となった(とは言え、黒沢清のように、あまりにも無茶をして、配給を断られたという例もある)〔なお、この映画会社が若手クリエイターに作品創りを事実上一任するという手法は、後年、ポルノ映画・ピンク映画の衰退と共にサブカルチャーの分野に台頭してきたアダルトゲーム業界において、パートナーブランドやホビボックスなどのゲームソフトの元卸を手掛ける企業・販社が、小規模な開発チームに開発資金を供給して自社の傘下に入ることを条件に資金を供給し、ゲームソフトの実制作を手掛けさせるという形で少なからず似たような構図が見られている。〕。 また量産体制の維持の必要からも若手映画人の育成は進められた〔。1960年代後半から1980年代前半に掛けての若手映画人で、1990年代以降の日本映画界を支えた人物には、初期のキャリアとしてロマンポルノ作品が含まれている人物は別段珍しくもない。たとえば、ロマンポルノ映画ながら強い作家性で高い評価を得る作品を制作した監督には神代辰巳、曾根中生、田中登などがおり、ロマンポルノのブランドから監督としての主要なキャリアを出発させた人物には石井隆、和泉聖治、金子修介、崔洋一、周防正行、相米慎二、滝田洋二郎、中原俊、那須博之、根岸吉太郎、森田芳光、村川透などがいる(ピンク映画や自主映画出身でロマンポルノに招かれた監督、日活買取配給ながら実際は外部のピンク映画プロダクション製作で日活撮影所とは関わっていない監督も含む)〔。 1970年代においては、日活の黄金期でもほとんど無縁だった時代劇や、同社の1960年代後半の主力路線だった任侠ものも数多く作られている。とはいえ、業績的には決して完全な回復基調に至ったわけではなく、1975年には堀久作から社長の地位を継いでいた息子の堀雅彦が業績不振と労働争議により社長退陣に追い込まれた。ここでようやく日活は堀家の支配から解き放たれたのである〔堀雅彦はその後1988年5月28日に葛飾区金町のアパートで数日前に孤独死していたのが発見されるという最期を遂げた。ただし堀家自体はその後も新江ノ島水族館の経営者として健在である。〕。 日活ロマンポルノは、人材・作風などから大蔵映画などのピンク映画とそれなりに関連性があるが、ほぼ別物と言って良い。ロマンポルノは予算がピンク映画に比べて潤沢であり、日活社有のスタジオが利用でき、俳優・監督なども事実上の日活専属が多かった事から、ピンク映画とは大幅にカラーが異なるものであった〔当時の日活の俳優部長のコメント。「ウチの作品はピンク映画とは違う。あくまでもポルノ映画です。その証拠に、ちゃんと物語もあるし、制作費も一千万円かけている。四畳半の中で裸を見せるだけのピンクとは違います」(『岐阜日日新聞』 1971年10月28日付夕刊、5面)〕。また中小のピンク映画会社の女優や監督など、優秀な人材が日活にヘッドハンティングされる事もあり、決して対等・良好な関係とは言えなかった。ただし、1980年代後半以降、諸般の事情からロマンポルノにピンク映画出身の監督が次々に進出するようになり、垣根は取り払われていった。さらに、ロマンポルノ末期には、経費削減のため、ピンク映画を買い取ってロマンポルノとして公開したり、ピンク映画の制作に丸投げで下請けに出すような事も行われたうえ、ロマンポルノ自体も制作費をあまり掛ける事が出来なくなり、一部の大作を除くと、作品の作りや出来自体もあまり差が無くなっていった。 ロマンポルノ後半期の1980年代において最大のライバルとなったのは、日活のような前貼りをしての疑似セックスではなく、実際のセックス(本番行為)を行うアダルトビデオ(AV)であった〔。一般家庭にもVHSビデオデッキが普及し、巷にレンタルビデオ店が大量に出現し、低料金でレンタルできるようになった1980年代後半には、成人映画の劇場に足を運ぶ人は減る一方であった(一方、AV業界は1985-1988年頃に大きく売り上げを伸ばし、「AV黄金時代」と言われた)。1985年から1988年までの3年間、日活はビデオ撮影しフィルムに転写したキネコ作品を、「ロマンX」と銘打って公開した(第1作は木築沙絵子主演『箱の中の女』)。ロマンXは本番行為を行うアダルトビデオに対抗する目的で作られたもので、日活の女優たちもAV女優に対抗して本番行為を行った。「本番女優」は映画の中で一般女優と同様に演技をするが、セックスをするという点ではAV女優となんら変わりがない。この時期、アダルトビデオでは性器にモザイクが入るのをいいことに、セックスをしている真似だけをする作品が多かったが、日活ではそのようなヤラセはなく、女優たちが実際にセックスを行った。その一方、1980年代前半から元アイドルや旬を過ぎた女優などを起用するソフト路線もあらわれ(これらの多くは2本立て興行となり“エロス大作”と呼ばれた)、こちらはロマンXとは対照的に性描写は極めて薄くなっていった。1980年代後半はこうした二極路線で何とか持ち直すも、映倫が「ロマンX」のハード路線に難色を示し、路線変更を余儀なくされた事から、次第に行き詰まっていく。 1988年4月14日に、にっかつ経営陣は東京プリンスホテルにて記者発表を行い、同年6月をもってロマンポルノの製作を終了すると発表した。第1作の公開から数えて16年半にして「ロマンポルノ」の時代は終焉を迎えたのである。同年5月28日公開の最後の作品は、後藤大輔監督『ベッド・パートナー』及び金澤克次監督『ラブ・ゲームは終わらない』。この2作品とも、両監督のデビュー作となった。なお、これに合わせて7月1日より、にっかつ系映画館を「ロッポニカ」と改名し、「ロッポニカ」レーベルで一般映画の製作・配給を再開する(第1作は神代辰巳監督『噛む女』・小澤啓一監督『メロドラマ』)。同時に、一般映画を上映できない成人映画館に向けて、系列のエクセス・フィルムで成人映画の買付け・配給を行った。しかし、一般映画路線は不入りで半年で打ち切られ、以後多くのロッポニカ館においても、エクセス・フィルム作品を上映する。また、ケーブルテレビ(CATV)のコンテンツ・チャンネルNECOを設立したが、バブル景気に乗じて過剰投資に走りすぎ、バブル崩壊後経営状況は悪化の一途をたどる。 1989年8月3日、にっかつは成人映画路線を別会社「新日本映像株式会社」に委託、「エクセス・フィルム(エクセス・ポルノ)」のレーベル名で新作の製作を開始した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「日活ロマンポルノ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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