翻訳と辞書
Words near each other
・ ロマン・アグノエル
・ ロマン・アダモフ
・ ロマン・アブラハム
・ ロマン・アブラモビッチ
・ ロマン・アブラモヴィッチ
・ ロマン・アモヤン
・ ロマン・アリ・ソリス
・ ロマン・イゴレヴィチ
・ ロマン・イゴレヴィチ (ガーリチ公)
・ ロマン・イゴレヴィチ (リャザン公)
ロマン・イングヴァレヴィチ
・ ロマン・ウィリアム・クレス
・ ロマン・ウラジミロヴィチ
・ ロマン・ウラジミロヴィチ (ヴォルィーニ公)
・ ロマン・ウンゲルン
・ ロマン・ウンゲルン=シュテルンベルク
・ ロマン・エドムント・オルリク
・ ロマン・エメリヤノフ
・ ロマン・エレメンコ
・ ロマン・カチャーノフ


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ロマン・イングヴァレヴィチ : ミニ英和和英辞書
ロマン・イングヴァレヴィチ
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ロマン・イングヴァレヴィチ : ウィキペディア日本語版
ロマン・イングヴァレヴィチ
ロマン・イングヴァレヴィチ(、? - 1238年)はリャザン公イングヴァリ(ru)の子である。コロムナ公:1217年 - 1237年。
1237年12月のモンゴルのルーシ侵攻におけるリャザン公国での戦闘に際して、おじのリャザン大公ユーリー、兄弟のオレグ(ru)はリャザンの防衛戦(ru)を指揮し、ロマンはウラジーミル大公国軍と共に北方へ転戦した。『ラヴレンチー年代記(ru)』は、ウラジーミル大公国軍と、ロマン、ノヴゴロド公国軍が、ウラジーミルから共に進撃したことを伝えている。一方『イパーチー年代記(ru)』は、ロマンはプロンスク公ミハイルの息子(名は記されていない)と共に、ウラジーミルへモンゴル帝国軍進入の報を伝えた、と記している。
ロマンは1238年1月の、コロムナ近郊の戦い(ru)で死亡した。
ロマンの素性に関しては、『バツのリャザン襲撃の物語(ru)』に述べられる、コロムナ公グレプ・イングヴァレヴィチという人物と同一人物とみなす説がある〔Войтович Л. КНЯЗІВСЬКІ ДИНАСТІЇ СХІДНОЇ ЄВРОПИ 〕。また、ロマン・イゴレヴィチと呼んでいる研究者もいる〔Храпачевский Р. П. Батыево побоище 〕〔Каргалов В. В. Конец ордынского ига 〕。なお、1217年に死亡した、リャザン公のロマン・イゴレヴィチという人物が存在している。
==出典==





抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ロマン・イングヴァレヴィチ」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.