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ロマン・ロオラン : ミニ英和和英辞書
ロマン・ロオラン[らん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

ラン : [らん]
 【名詞】 1. (1) run 2. (2) LAN (local area network) 3. (P), (n) (1) run/(2) LAN (local area network)

ロマン・ロオラン ( リダイレクト:ロマン・ロラン ) : ウィキペディア日本語版
ロマン・ロラン[らん]


ロマン・ロラン(Romain Rolland、1866年1月29日 - 1944年12月30日)は、フランスの、理想主義ヒューマニズム - 平和主義 - 反ファシズム作家。戦争反対を世界に叫び続け、国際的に多くの知友を持った。
== 生涯 ==
フランス中部、ニエーヴル県クラムシー出身。父エミールは公証人で、母アントワネット=マリーの家系も公証人であったことから貧しい環境ではなかった。7歳からクラムシー中学(Collège de Clamecy)に通うものの、1880年に一家はパリに転居。翌1881年からサン=ルイ高等中学校(Lycée Saint-Louis)に入り、1882年(18歳)にルイ大王高等中学校に転校する。
この頃から、級友のポール・クローデルと音楽会に通い詰め、1886年(20歳)に2年後れてエコール・ノルマル・シュペリウール(高等師範学校)へ進学し、哲学と歴史を学ぶ傍ら文学・美術・音楽に没頭しピアノをよくした。1887年にはトルストイ戦争と平和』を読んで、トルストイと文通までしている。1889年に高師を卒業すると同時に歴史の教授資格試験に合格、1891年までローマのフランス学院へ留学する。そこでドイツの女流作家、マルヴィーダ・フォン・マイゼンブーク(1816 - 1903)と知己となり、彼女を介してニーチェワーグナーに関心を持つと共に、国際関係に目を開いた。
1892年(26歳)に言語学者ミシェル・ブレアルの娘クロチルド(Clotilde)と結婚するが、1901年に離婚。1894年からアンリ4世高等中学(Lycée Henri-IV)で、翌年からルイ大王高等中学で教鞭をとる。1895年に『近代叙情劇の起源』と『16世紀イタリア絵画の凋落』とにより文学博士の学位を取得、エコール・ノルマルの芸術史講師となった。この頃から、戯曲や音楽評論を発表し始める。1902年からは、「社会学大学」(École des hautes étude sociales)で音楽史を担当した。
1903年(33歳)、高等師範学校時代の教え子であるシャルル・ペギーの個人雑誌『半月手帖』(Cahiers de la Quinzaine)に『ベートーヴェンの生涯』を発表。これが反響を呼び、翌1904年にソルボンヌで音楽史を担当し始めると共に、『ジャン・クリストフ』を『半月手帖』に掲載し始め1912年に脱稿。同じ頃にヨーロッパ各地を旅行し、シュヴァイツァーヴェルハーレンR.シュトラウスツヴァイクリルケシンクレアらと知り合う。1910年(44歳)にレジオンドヌール勲章を受章、1912年に『ジャン・クリストフ』を脱稿すると、文学に専心すべくソルボンヌを辞しスイスの雑誌に芸術時評を書き始める。1913年には『ジャン・クリストフ』が『アカデミー・フランセーズ文学大賞』を受賞する。
1914年8月に勃発した第一次世界大戦に対しては、たまたま滞在中のスイスから、仏独両国へ「戦闘中止」を訴える。このことから祖国への反抗と受け取られて帰国できない状態になったが、その反面アルベルト・アインシュタインヘルマン・ヘッセエレン・ケイらと意を通じ合うことになる。こうした国際的には評価される一方で、母国では好感されぬ傾向は、生涯にわたることになる。1916年(50歳)に1915年度のノーベル文学賞を受賞。1917年にロシア革命が勃発すると早くも支持を表明し、レーニンの死やロシア革命10周年に際してはメッセージを送った。白色テロに反対する『国際赤色救援会』(International Red Aid)にも参加し、『ソ連邦建設科学アカデミー』の名誉会員に選ばれるなど、ソビエト連邦共産党への共感を鮮明にした。2度目の妻(1934年に再婚)マリー・クーダチェヴァ(Maria Koudacheva)はロランがモスクワから招いた秘書であり、再婚の翌年には夫妻同道でソ連を訪問し、マクシム・ゴーリキー宅に滞在してスターリンとも会見アンドレ・ジッドがソ連を批判した際には反批判を加えるくらいだったが、独ソ不可侵条約の締結を切っ掛けとして『ソヴィエト友好協会』(L'association des amis de l'Union soviétique)を脱会して、以降は没交渉となる。
戦後の1919年(53歳)に母親が死去したことから一時パリへ戻り、1921年タゴールを迎えたりしたが、1922年、父および妹マドレーヌと共にスイスのレマン湖東岸ヴィルヌーヴ(Villeneuve))に定住。1923年に雑誌『ヨーロッパ』(Europe)が創刊した際にはこれを援助し、ロンドン国際ペンクラブ大会にも出席した。翌1924年にはマサリク大統領に招かれてプラハを訪れ、ジュネーヴ国際連盟総会に出席。その一方でムッソリーニの『ファシスト党』の暴行を非難している。1926年、雑誌『ヨーロッパ』が生誕60年記念号を出した。タゴールやネルーがロランの許を訪問。1927年にはアンリ・バルビュスの反ファシズム宣言に賛同者として名を連ね、1932年にアムステルダムの『反戦全世界大会』が挙行されると、バルビュスと共に主導役となっている。
1931年(65歳)に父親が死去し、マハトマ・ガンジーが来泊。この年に起こった日本満州占領も非難している。1933年にはドイツヒンデンブルク大統領がロランに『ゲーテ賞』を授与するが、ロランはこれを拒否。パリに『反ファシスト国際委員会総会』(Comité antifasciste international Membre)が成立すると、ルイ・アラゴンと共に名誉議長となる。
1936年にアラゴン、アンドレ・マルローらの発議、アンドレ・ジッドの司会により、生誕70年の祝賀会がパリで挙行。レオン・ブルムの第一次人民戦線内閣の後援のもとに『七月十四日』がパリで上演され、ミヨーオネゲルが曲を付し、ピカソが幕絵を描いた。1938年(72歳)にスイスからフランスへ帰国し、故郷に近いヴェズレーを終生の住処とする。ミュンヘン会談における仏英の弱腰に抗議し、1939年にナチス軍がチェコスロバキアへ侵入すると、ダラディエ首相に非難書簡を送っている。
第二次世界大戦が勃発すると、ヴェズレーはナチス占領地域内となり沈黙を強いられるものの、それでも旧友のクローデルが来訪している。1943年から病床に就き、1944年のパリの解放を知り、ソヴィエト大使館の十月革命祝賀会に出席。レジスタンス犠牲者追悼会にメッセージを送り、年末には原稿の校正を終えると永眠した。故郷クラムシーで葬儀が行われ、近くのブレーヴ(Bréves)の墓地に埋葬された。
1946年、未亡人が企画して『ロマン・ロラン友の会』(Association des amis de Romain Rolland)が組織され、1985年の147号まで、会報を発行した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Romain Rolland 」があります。




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