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ロマーン・ヤコブソン : ミニ英和和英辞書
ロマーン・ヤコブソン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ロマーン・ヤコブソン ( リダイレクト:ロマーン・ヤーコブソン ) : ウィキペディア日本語版
ロマーン・ヤーコブソン[ちょうおん]
ロマーン・オシポヴィチ・ヤーコブソン(Roman Osipovich Jakobson、1896年10月11日 - 1982年7月18日)は、ロシア人の言語学者。ハーバード大学マサチューセッツ工科大学など多数の大学で名誉教授を務めた。
言語学、詩学および芸術などの分野における構造分析の開拓、発展に多大なる寄与をなした。研究の対象領域は、音声学音韻論をはじめとする一般言語学の諸分野、スラヴ言語学、スラヴ文化史、スラヴ文学史、スラヴ民俗学詩学、比較韻律学、比較印欧神話学、児童言語学、言語病理学、言語心理学情報理論記号論などと広大である。
== 経歴 ==
モスクワの裕福な家庭に生まれた。ごく幼い頃から、の分析をはじめとして、言語に対する関心を育んだ。学生の頃、彼はモスクワ言語学サークルで頭角を現し、モスクワアバンギャルド芸術および詩の活発な世界に参加した。
当時の言語学の主流は青年文法学派で、言語に関する唯一の科学的な研究は、通時的に言語の歴史および変遷を研究することであると主張されていた。一方、ヤーコブソンは、フェルディナン・ド・ソシュール構造主義の礎を築いたとされる人物)の業績に接触しており、言語の構造と、その基本的機能に焦点を当てた手法の開拓に力を注いだ。
1920年はロシアの大政変の一年であった。ヤーコブソンは自身の博士号のための研究を継続するためにプラハへ移動した。そこで、言語学史では「プラハ学派」と呼ばれる、学派の創立者の一人、ニコライ・トルベツコイと一緒だった(他に、ヴィレーム・マテジウスセルゲイ・カルチェフスキーなど)。そこでの、 音声学音韻論における彼の多数の業績は、言語の構造と機能に対する彼の関心を発展させ続けるのを助けた。
1939年、ヤーコブソンは第二次世界大戦の開戦に際し、スカンディナヴィアに向けてプラハを去った。戦局が西方へ展開されるとともに、1941年ナチスの弾圧を逃れて彼はニューヨークへ渡った。そこには、知識人移民の大きなコミュニティ、高等研究自由学院 (École libre des hautes études)があった。そこにはフランスの大学から逃れて来た人々もいた。彼は文化人類学者のクロード・レヴィ=ストロースと出会い、互いに教えあうこともあった。そのような交流は、後に構造主義が思想界に新たな潮流を生む契機にもなった。
高等研究自由学院でヤーコブソンが出会ったアメリカの言語学者や人類学者は、フランツ・ボアズベンジャミン・ウォーフレナード・ブルームフィールドなどである。
1949年に、ヤーコブソンはハーバード大学に移った。
1960年代の初めに、ヤーコブソンはより包括的な言語への視点を強調するようになり、コミュニケーション科学についても関心を向け始めた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ロマーン・ヤーコブソン」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Roman Jakobson 」があります。




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