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ロリー・ギャラガー : ミニ英和和英辞書
ロリー・ギャラガー[らがー]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ギャラ : [ぎゃら]
 【名詞】 1. (1) (abbr) guarantee 2. (2) fee paid to performing artists 3. (P), (n) (1) (abbr) guarantee/(2) fee paid to performing artists
ラガー : [らがー]
 【名詞】 1. rugger 2. (n) rugger

ロリー・ギャラガー : ウィキペディア日本語版
ロリー・ギャラガー[らがー]

ロリー・ギャラガー(Rory Gallagher、1948年3月2日 - 1995年6月14日)は、アイルランド出身のブルース・ロック・ギタリスト。バリーシャノン生まれ、コーク育ち。死後もなお、ジョニー・マーグレン・ティプトン グレン・ティプトン公式サイト 〕など、ロックのジャンルを超越して多くの後進に影響を与え続けている。なお、英語での発音は「ギャラハー」に近い。
2011年、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」において第57位。
==生涯==

===誕生~テイスト結成・解散‏===
ギャラガーは1948年3月2日、アイルランドのバリーシャノンに生まれ、デリーを経て、8歳頃からコークで育った。
幼い頃にテレビでエルヴィス・プレスリーを観て音楽に目覚め、9歳頃、初めてのアコースティック・ギターを両親から贈られている。
レッドベリーチャック・ベリーロニー・ドネガンマディ・ウォーターズなどのレコードを聴き漁り、独学でどんどんギターの腕前を上げていったギャラガーは、12歳の時に地元のタレント・コンテストで賞を取り、その賞金で初のエレキ・ギターを入手した。
そして1963年、15歳の時に、地元の楽器屋で中古の61年製フェンダー・ストラトキャスターを100ポンドで購入。(ストラトを選んだ理由は、当時からギャラガーのアイドルだったバディ・ホリーが使用していたため。)アイルランドに上陸した初めてのストラトだとも、2本目だったとも言われている。
この頃、ギャラガーはすでにバンドに加入し、プロとしての活動を始めていた。1960年代半ばには、国内のみならず、スペインマドリード米空軍基地や、ロンドンなどにも演奏に出かけている。またその後、ドイツハンブルクにも渡った。
1966年にギャラガーは、地元コークでテイストを結成する(最初はザ・テイストと“ザ”が付いていた。)ボーカル&ギター担当のロリーを中心に据えたトリオだった。ギターの自由度を最大限に生かし、インプロヴィゼーションを重視したブルース・ロックが、彼らの目指すところだった。 そんな彼らを世間は、同じくトリオで、当時すでに大きな話題となっていたクリームの再来と称した。しかし、ギャラガーはハンブルク巡業時代にすでにトリオで活動していた。つまり、トリオという発想はギャラガーのほうが先だったのだ。
ところが1967年頃、アイルランドのダブリンでギャラガーのストラトが盗まれた。10日後に市内の公園で発見されたが、雨風に打たれたせいだろう、酷い状態になっていたそうだ。このことからギャラガーのストラトの塗装が剥げ落ちたのは、長年の使用によるものではなく、このときの事件によるものだと見る向きもある。
さて、テイストは1968年にロンドンに進出するが、そこでギャラガー以外のメンバーチェンジが行われ第2期に突入した。彼らはクリームのマネージャーでもあるロバート・スティグウッドと契約を結び、その関係もあってか、1968年11月のロイヤル・アルバート・ホールでのクリーム解散コンサートでは前座を務めた。
テイストは1969年、同名アルバムでデビューを飾った。その人気ぶりは、マーキー・クラブの観客動員数を塗り替えたことや、ライヴを観たジョン・レノンが「素晴らしい才能を持った新人」と評したというエピソードからもうかがえる。またその年、ブラインド・フェイスのアメリカ・ツアーにフリーと共に同行した。
1970年には2nd『オン・ザ・ボード』を発表。その年のワイト島フェスティバルは亡くなる20日ほど前にジミ・ヘンドリックスが出演したことで有名だが、5回ものアンコールを受けたテイストのステージも伝説となっている。しかしその年いっぱいでバンドは解散、ギャラガーはソロ活動を開始した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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