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ロンドン議定書(ロンドンぎていしょ、英語:London Protocol)は、ロンドンにおいて取り交わされた議定書。議定書は1829年、1830年、1832年、1852年、1877年、1944年、2000年に取り交わされているが、特に1852年のものが歴史上有名であり、本項では以下、この議定書について説明する。 == 1852年のロンドン議定書 == 単に「ロンドン議定書」と呼ぶ場合、特に1852年5月8日に取り交わされた議定書を指すことが多い。ロンドン条約とも言う。この議定書の締結によって、第一次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争は終結した。スウェーデンと当時の列強である五大国によって締結された。 内容は、戦争終結に向けての外交による妥協であり、終戦条約ではなかった。戦争終結に向けて、スウェーデン王オスカル1世が列強と交渉し、妥結を目指したものである。この議定内容は、デンマークが1849年に布告した6月憲法をシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国に布告しないというものであり、係争国プロイセン王国にとっては、妥協とも言える内容であった。6月憲法とは、デンマークによる絶対王政を改め、議会政治を開始させるという内容である。これをシュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国に布告し、公国の分離を防ぐのが狙いであった。しかし議定書では、6月憲法の両公国内への適用を認めていなかった。これは戦争終結に主点をおいたもので、デンマークの目論みが破綻したことを意味していた。 同時にこの交渉には、デンマーク王位継承者問題も含まれていた。デンマーク王フレデリク7世を最後にオルデンブルク家断絶は決定的であり、「王位継承法」によってオルデンブルク家の支流グリュックスブルク家のクリスチャン9世が指名された。親ドイツ派で戦争の首謀者であったアウグステンブルク家(オルデンブルク家の別の支流)の当主クリスチャン・アウグスト2世は王位継承権を放棄させられた。これはデンマーク側にとっては一つの勝利であった。 しかし一方で、議定書の大半はデンマークにとって納得出来るものではなかった。実情は現状維持であり、終戦を意味していなかった。スウェーデン王オスカル1世はこの戦争終結によって名声を得たものの、議定書の内容に納得していなかった。デンマークとスウェーデンは急速に結びつきを深め、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国のさらなる安定を追求していくこととなった。一方プロイセン王国も、オットー・フォン・ビスマルクと言う稀代の政治家の台頭により、新たな展開を迎えることとなる。 == 脚注 == 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ロンドン議定書」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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