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"ラギッド" ロニー・ガービン("Rugged" Ronnie Garvin、本名:Roger Barnes、1945年3月30日 - )は、カナダ・ケベック州モントリオール出身の元プロレスラー。生年は1944年ともされる。 元NWA世界ヘビー級王者。ラフファイトに強いベビーフェイスのタフガイとして活躍し、その強烈なパンチ攻撃から "The Man with the Hands of Stone" の異名で呼ばれた(名付け親はプロレス実況者のゴードン・ソリー)。 == 来歴 == 少年時代にモントリオールのバプティスト教会でパット・パターソンやテリー・ガービン(テリー・ジョイヤル)と共にトレーニングを積み、1962年に17歳でデビュー〔。以後、テリー・ガービンの「弟」と称してロニー・ガービン(''Ronnie Garvin'')と名乗り、テリーとの「ガービン・ブラザーズ」で活動。 フロリダ、テネシー、ジョージアなどアメリカ南部をヒールのポジションで転戦し、1964年から1974年にかけて、各地区のローカル・タッグ王座を再三獲得。その間、1971年1月にテリー・ガービンと共に日本プロレスに来日しているが、小柄だったこともあってタッグ王座への挑戦権は与えられず、これが最初で最後の日本マット登場となっている。 1974年下期からは義理の息子でもあるジミー・ガービンも「末弟」として加わり、一時期はトリオの兄弟ユニットを結成していたが、1975年にガービン・ブラザーズを離れシングル・プレイヤーとなって活動。ルイジアナやノースカロライナを経て、1977年よりロン・フラー主宰のNWA傘下団体サウスイースタン・チャンピオンシップ・レスリングに登場。ミスター・ノックスビル(''Mr. Knoxville'')なる覆面レスラーに変身し、同年6月10日にボブ・オートン・ジュニアと組んでジョー・ルダック&ボブ・アームストロングからサウスイースタン・タッグ王座を奪取した。その後は素顔に戻ってベビーフェイスに転向、モンゴリアン・ストンパー、ボリス・マレンコ、アレックス・スミルノフ、ディック・スレーターらとサウスイースタン・ヘビー級王座を争い、通算8回に渡って同王座を獲得した。 1979年、サウスイースタンでの戦友だったボブ・ループやボブ・オートン・ジュニアと共に、アンジェロ・ポッフォがケンタッキー州レキシントンにて旗揚げした新興独立団体インターナショナル・チャンピオンシップ・レスリング(ICW)に参戦。同年5月26日に同団体認定のサウスイースタン・ヘビー級王座の初代チャンピオンに認定され、ペッツ・ワトレーやラニー・ポッフォとのタッグでも活動。以降ベビーフェイス陣営のトップとしてICWに定着し、1982年にかけてICW世界ヘビー級王者ランディ・サベージと抗争を繰り広げた。 ICWの活動停止後はNWA圏に戻り、1983年よりジム・バーネット主宰のジョージア・チャンピオンシップ・レスリングに登場。1984年は4月7日にジェイク・ロバーツから世界TV王座を、7月4日にジェリー・オーツと組んでロード・ウォリアーズからナショナル・タッグ王座を、10月11日にはテッド・デビアスから同ヘビー級王座を奪取するなどの活躍を見せた。 1985年下期からは、ジョージアを買収したジム・クロケット・ジュニアの運営するNWAミッドアトランティック地区に進出。1986年4月19日に開催されたタッグチーム・トーナメント "Crockett Cup" の第1回大会にはマグナムTAと組んで出場、2回戦でバズ・ソイヤー&リック・スタイナー、3回戦で全日本プロレスのジャイアント馬場&タイガーマスクを破り決勝戦に進出したが、ロード・ウォリアーズに敗れ準優勝に終わった。 同年9月2日にはブラック・バートを破りミッドアトランティック・ヘビー級王座を獲得し、12月9日にはバリー・ウインダムをパートナーにザ・ラシアンズ(イワン・コロフ&クラッシャー・クルスチェフ)からUSタッグ王座を奪取。そして1987年9月25日、ミシガン州デトロイトにてリック・フレアーを下してNWA世界ヘビー級王座を獲得した。しかしファンの反応は鈍く〔リック・フレアー、キース・エリオット・グリーンバーグ共著『リック・フレアー自伝 トゥー・ビー・ザ・マン』P236-237(2004年、エンターブレイン、ISBN 4757721536)〕、彼の戴冠期間は短期に縮小され、2カ月後の11月26日、イリノイ州シカゴで開催された『スターケード'87』にてフレアーが王座に返り咲くこととなった。 その後はジミー・ガービンとガービン・ブラザーズを再結成してバーシティ・クラブなどと抗争するが、1988年8月にNWAを離脱し、ヒールのポジションでAWAやWWCを転戦。すでに斜陽期に入っていたAWAでは9月17日にグレッグ・ガニアからインターナショナルTV王座を、プエルトリコのWWCでは11月24日にカルロス・コロンからユニバーサル・ヘビー級王座を、それぞれ奪取している。 同時期にWWFと契約し、1988年12月、アイアン・マイク・シャープを破ってTVデビューを飾る〔。再びベビーフェイスに戻り、1989年からはディノ・ブラボーやグレッグ・バレンタインとの抗争アングルが組まれ、PPVの『ロイヤルランブル'89』『レッスルマニアV』『サバイバー・シリーズ'89』にも出場した。しかし、WWFではNWA時代のような活躍は果たせず、1990年1月の『ロイヤルランブル'90』以降はジョバーの役回りが多くなり、同年11月にWWFを離脱した〔。 以後、WWCを経て1992年はジム・コルネットがテネシー州ノックスビルで主宰していたスモーキー・マウンテン・レスリングで活動。ポール・オーンドーフとのベテラン同士の抗争を展開した〔。セミリタイア後の1999年には、WWFを共にサーキットした同郷のジャック・ルージョー・ジュニアらルージョー・ファミリーの主催するモントリオール地区のイベント "International Wrestling 2000" に、ジミー・ガービンやアブドーラ・ザ・ブッチャーとのタッグで出場した。 近年は航空運送会社のパイロットとして活動〔。彼は1970年代初頭に飛行機免許を取得し、サーキット中も自家用機で移動していたという〔。なお、義理の息子ジミー・ガービンも引退後はUSエアウェイズの操縦士となっている。 引退後も南部のインディー団体やリユニオン・イベントに時折登場しており、2005年にはNWA時代の盟友ダスティ・ローデス対タリー・ブランチャードのレジェンド対決にてレフェリーを務めた〔。2011年8月12日にインセイン・クラウン・ポッシーが主宰するJCWで行われたPPV "JCW Legends & Icons" では、ジミー・スヌーカ、トニー・アトラス、ジム・ドゥガン、リキシ、ヴィセラ、ドインク・ザ・クラウン、ブルータス・ビーフケーキらと共にバトルロイヤルに出場した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ロニー・ガービン」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Ron Garvin 」があります。 スポンサード リンク
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