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ロータス・49 (Lotus 49) は、ロータスのコーリン・チャップマンとモーリス・フィリップがデザインしたフォーミュラ1カー。名機フォード・コスワース・DFVエンジンを最初に搭載したF1マシンである。 からまで使用されて通算12勝を獲得(ジム・クラーク5勝、グラハム・ヒル4勝、ヨッヘン・リント2勝、ジョー・シフェール1勝)。排気量2.5リットルのコスワースDFWエンジンに積み替えてタスマンシリーズにも投入された。 == 49 == ロータスはに投入した43においてエンジンをモノコックにボルト留めし、強度部材(ストレスメンバー)の一部とする設計を導入したが、搭載するBRM・H16エンジンの性能不足に苦しんだ。ロータスはイギリス・フォードの資金援助を受け、エンジンビルダーのコスワースと協力して密かにフォードDFVエンジンの開発プロジェクトを進めた。49の開発はこれと並行して行われ、コンベンショナルなバスタブ式モノコックの後方にDFVエンジンをミッドシップマウントした。 チャップマンは当初、ポテンシャル的に未知数なコスワースDFVエンジンに開発リソースを集中させる為、フィリップに対しシンプルでコンベンショナルなシャシ設計を要求した。それを受けてフィリップは、一連のロータス製アルミモノコックの構造を踏襲し、空力デザインに至っては49でやや後退した感もあったほどだが、例えばフロントサスペンションには、当時のF1マシンの標準からはやや逸脱した、ロールセンタ移動量が大きく出る上反角の強いアッパ・アームを与えるなど、サスペンション・ジオメトリには49独特の特徴が見られる。 DFVエンジンは1967年5月に完成し、第3戦オランダGPから49が実戦投入された。初期の開発テストは、ジム・クラークが税金対策でパリに居住していたので、グラハム・ヒルに任された。ヒルは自分用のマシンをすでに調整済みでポールポジションを獲得したが、クラークが自分用の49に接したのは予選の2日前で、サスペンショントラブルに手間取り、予選では8位に甘んじた。しかし本番のレースでは、テスト走行に使われて走行距離の長かったヒル車が、初期DFVエンジンの抱えていた欠陥であるタイミングギア破損でリタイアし、走行距離の短かったクラーク車がデビューウィンを飾った。 フランスGPでは、クラーク、ヒルともにギアボックス破損でリタイアしたが、イタリアGPでは、トップを走行中に右後輪のパンクで周回遅れとなったクラークが猛然と追い上げて再びトップに立つ走りを見せた(最終ラップでガス欠を起こし3位)。アメリカGPではクラーク車、ヒル車ともにメカニカルトラブルを起こしながら、3位以下をすべて周回遅れにして初のワンツーフィニッシュを飾り、ポテンシャルの高さを見せつけた。 1967年は出走した9戦全てでポールポジションを獲得し、デビュー戦を含めて4勝を挙げた。しかし、DFVエンジンの初期トラブルやZF製ギアボックスの信頼性が低く、クラークは3回リタイアしてチャンピオンを逃し、ヒルは2戦しか完走できなかった(リタイア7回)。 翌、元日開催の開幕戦南アフリカGPでクラークとヒルは2度目のワンツーフィニッシュを飾った。1〜3月のタスマンシリーズに出場したマシンはブリティッシュグリーンではなく、タバコ銘柄「ゴールドリーフ」のパッケージにちなんだ赤・白・金のカラーリングをまとった。エッソの支援打ち切りを受けての変更で、以後、F1界ではナショナル・レーシングカラーからスポンサーカラーへの移行が進むことになった。 このシーズンは問題の改善が進んで49が優位になるとみられた。だが、F1ヨーロッパラウンド開幕を前に、クラークは4月のF2レースで事故死してしまった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ロータス・49」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Lotus 49 」があります。 スポンサード リンク
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