翻訳と辞書
Words near each other
・ ロードナイト
・ ロードナイトモン
・ ロードナンバーワン
・ ロードネルソン級戦艦
・ ロードハウクイナ
・ ロードハウス 孤独の街
・ ロードハウセイケイ
・ ロードハウナナフシ
・ ロードハウ島
・ ロードバイク
ロードバクシン
・ ロードバランサ
・ ロードバランサー
・ ロードバランシング
・ ロードバランス
・ ロードバリナ
・ ロードバロック
・ ロードパル
・ ロードヒポキシス
・ ロードヒーティング


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ロードバクシン : ミニ英和和英辞書
ロードバクシン[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ロードバクシン : ウィキペディア日本語版
ロードバクシン[ちょうおん]

ロードバクシン日本競走馬兵庫県競馬サラブレッドが導入されてから初の三冠を達成した。おもな勝ち鞍は兵庫チャンピオンシップ菊水賞園田ダービーなど。兵庫チャンピオンシップを勝利した唯一の地元馬(当時)でもある。
== 戦績 ==
馬齢2000年以前は旧表記を用いる。
2000年にデビュー。2連続2着のあとは着実に勝ち星を重ね、園田ジュニアカップ重賞初制覇。同年の兵庫県最優秀3歳に選ばれる。
2001年、園田ダービーを含む5連勝で臨んだ兵庫チャンピオンシップは兵庫アラブ三冠時代の楠賞全日本アラブ優駿と同様に、他地区の馬(JRA所属など)に阻まれるケースが多いが、この頃はそれほど強力な馬を送り込んできていなかったことも幸いし、難関の2冠目を制した。菊水賞も制して三冠馬となる。
9月のダービーグランプリは5番人気に推されたが、勝ったムガムチュウから8.9秒離された大差の殿負けを喫する。初の長距離輸送も響いたのかもしれないが、夏が苦手で体調が整っていなかったという理由もある。7月から9月にかけてのレースはずっと苦手のままだった。
2002年は年初の六甲盃を制し兵庫ナンバーワンの座に君臨したものの、兵庫大賞典で7歳のアラブサンバコールに全く歯がたたず3着。主戦騎手小牧太落馬復帰明けというハンデも災いしたが、アラブとの実力差を思い知らされた一戦であった。その後、姫山菊花賞を制した後、ロードバクシンは長い間、重賞勝利から遠ざかる。2002年の三冠を故障で棒に振ったホクザンフィールドが復帰し、六甲盃、播磨賞、兵庫大賞典などで4連敗するなど、2003年は重賞未勝利に終わっている。
2004年に主戦の小牧太がJRAに移籍してからしばらくは弟の小牧毅が騎乗しイマイチなレースが続いていたが、兵庫リーディングジョッキー岩田康誠が騎乗するようになって成績が良化する。播磨賞以来となった姫山菊花賞では、かつての主戦であった小牧太が騎乗するカネトシパッションにアタマ差敗れたが、楠賞園田金盃有馬澄男騎乗)、半年の休養を挟んで2005年の兵庫大賞典を勝利。この年は楠賞、園田金盃と岩田の騎乗に起因する敗北が続き、図らずも年齢から来る反応の悪さを露呈したものの、2006年新春賞で通算30勝と重賞10勝を達成した。
新春賞以来で岩田のJRA移籍後初となったオープン特別では川原正一が騎乗、以前のようなエンジンのかかりの悪さを見せて4着と敗退したが、続く兵庫大賞典ではホクザンスターダムのマークもものともせず2連覇。その後3戦続けてオープン特別を使われたが、4,3,2着という不甲斐ない結果に終わった。楠賞は主戦の川原正一が同厩舎ジョイーレに騎乗するため2年ぶりに有馬澄男が騎乗。マクリ気味に上がっていくレッドペガサスについていけず完敗かと思われたが、最後の直線コースに入るとジョイーレの粘りはなくハナ差先着し、重賞12勝目を挙げた。次走園田金盃では勝ち馬と大きく離れた5着に敗れたものの、重賞3勝をあげたことが評価され、2006年兵庫県年度代表馬および最優秀4歳以上馬に選ばれた。
2007年に入ると兵庫県競馬組合の公式サイトで2月での引退が発表され、その後出走した最後の重賞競走、新春賞は4着に敗れた。
引退レースは2月14日の「サンテレビ賞」で、かつての主戦・小牧太を鞍上に出走、逃げて見せ場を作るも往年の走りはなく7着となった。全レース終了後に引退式が行われた。当日は勝負服を譲った小牧毅の騎乗は無く、かつての勝負服での騎乗が期待されたが、レースでの着服は無く結局引退式のみとなった。
引退後は種牡馬入りと見られていた同馬だったが、生殖能力無しと判断されてホッカイドウ競馬へ移籍。堂山芳則厩舎のもとで再スタートが切られる予定だったが、復帰戦は熱発のため除外となり、そのまま1年近い休養を経て小野木雅浩に売却され2008年4月に笠松競馬場伊藤強一厩舎へ転厩した。
2008年5月15日の東海クラウンで1年3ヶ月ぶりにレースに復帰。園田時代より10kg以上重い体重ながら好走を続け、7月23日には揖斐峡特別で1年9ヶ月ぶりの勝利を挙げた。さらに8月15日くろゆり賞では8頭立ての単勝7番人気と事前の評価は高くなかったが、道中後方追走から直線見事な末脚を繰り出し、2着に1馬身半の差をつけて優勝。1年9か月ぶりに重賞競走を制し、通算重賞勝利数を13に伸ばした。しかし、その後のレースでは9着、3着、8着、7着と勝ちきれなかった。
2009年白銀争覇から始動したが、6着に終わった。続くウインター争覇の出走を取り消すと、3月には野本稔子に売却され高知競馬場の田中守厩舎に転厩。4月5日の移籍初戦で当地初勝利をあげた。その後3戦は着外に終わったが、7月12日の一般戦で高知移籍2勝目を挙げた。続くよさこい祭り特別では4着、建依別賞は8着に敗れたが、連闘で挑んだ一般競走では2着と好走した。
しかし9月18日サファイア特別を6着と敗れ、このレース後の10月6日付で登録抹消となり、以後は鹿児島県湧水町のホーストラストにて余生を送っている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ロードバクシン」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.