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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ロード・アルフレッド・ヘイズ(Lord Alfred Hayes、本名:Alfred George James Hayes、1928年8月8日 - 2005年7月21日)は、イギリス・ロンドン出身のプロレスラー。 1970年代初頭にアメリカに渡り、現役引退後の1980年代からはWWF(現・WWE)でアナウンサーやインタビュアーを務めた。 == 来歴 == 1950年代に英国にてデビュー。プロレス入りする以前はスモール・タニこと日本人柔道家の谷幸雄に師事し〔『Gスピリッツ Vol.21』P64(2011年、辰巳出版、ISBN 4777809463)〕、柔道の有段者であったことから、当時はジュードー・アル・ヘイズ(''"Judo" Al Hayes'')なるリングネームを用い、正統派のベビーフェイスとして活動していた。 1957年5月、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールにて英国遠征中の木村政彦と対戦するも敗退(柔道マッチであったかどうかは不明)〔。1964年、マイク・マリノを破り世界ミッドヘビー級王座を獲得。1968年9月には、当時ヨーロッパを外国人供給ルートとしていた国際プロレスに初代ケンドー・ナガサキのミスター・ギロチンやジョージ・ゴーディエンコらと共に初来日している。 1970年代に入り、英国貴族のロード・アル・ヘイズ(''"Lord" Al Hayes'')を名乗ってアメリカ・マット界に進出。ドリー・ファンク・シニアが主宰していたテキサス西部のアマリロ地区(NWAウエスタン・ステーツ・スポーツ)を主戦場に、キラー・カール・コックスやサイクロン・ネグロと抗争する。アマリロ地区のフラッグシップ・タイトルだったNWAウエスタン・ステーツ・ヘビー級王座を通算5回獲得し、タッグでは英国マットで活躍した実績を持つリッキー・スターと組み、1972年8月24日にボビー・ダンカン&ディック・マードックから同タッグ王座を奪取した。 その後ヒールに転向し、1973年下期より中西部のNWAセントラル・ステーツ地区に参戦。ロジャー・カービーやブルドッグ・ボブ・ブラウンをパートナーに、マイク・ジョージ&ジム・ブランゼルの若手チームとNWA世界タッグ王座を争った。1975年にはカナダの沿海州に進出、5月13日にミシェル・デュボアとの英仏コンビで同地区版のインターナショナル・タッグ王座を獲得している。古巣のアマリロでは1976年2月5日にレッド・バスチェンと組み、アメリカ遠征中だったジャイアント馬場&ジャンボ鶴田のインターナショナル・タッグ王座に挑戦〔『1945-1985 激動のスポーツ40年史(6)プロレス 秘蔵写真で綴る激動史』P155(1986年、ベースボール・マガジン社)〕。同年5月にはNWAルートで全日本プロレスに来日した。 以降、1977年3月よりバーン・ガニア主宰のAWAに定着。ペドロ・モラレスやクラッシャー・リソワスキーと抗争を繰り広げ、ビル・ロビンソンとも英国人同士の遺恨試合を展開。トークの才能を活かしてマネージャーも兼任し、ボビー・ヒーナンとのマネージャー同士の抗争も行われた。AWA時代はセントルイス・レスリング・クラブのキール・オーディトリアムでの興行にも再三出場しており、1979年12月7日にはディック・ザ・ブルーザーとシングルマッチで対戦した。 1980年7月からはNWAフロリダ地区に参戦、プレイング・マネージャーとしてディック・スレーターやボビー・ジャガーズらと共闘し、ダスティ・ローデスやバリー・ウインダム、そして同地区のマネージャーだったサー・オリバー・フンパーディンクと抗争した。1981年9月からはNWAミッドアトランティック地区にてクリス・マルコフ&ニコライ・ボルコフのロシア系コンビをコントロール。カナダのモントリオールでは旧敵ビル・ロビンソンのマネージャーも担当した。 現役引退後の1982年下期より、ニューヨークのWWFにスタッフとして参加。その能弁さを見込まれ、ビンス・マクマホンの全米侵攻が始まった1984年からは、トーク番組 "Tuesday Night Titans" にマクマホンの相方役でレギュラー出演。タキシード姿で格式ばったクイーンズ・イングリッシュを話す英国人キャラクターを演じた。WWFではベビーフェイスのポジションに回り、ジェシー・ベンチュラ、ジョニー・バリアント、ボビー・ヒーナンなどヒールのコメンテーターを相手に実況アナウンサーを担当することもあった。 1995年、交通事故で怪我を負いWWFを退団、フルタイムのプロレスリング・ビジネスから引退した。リタイア後はテキサスのダラスに居住していたが、事故の影響で壊疽を起こし片足を切断。2001年のカリフラワー・アレイ・クラブのOB会には車椅子で出席した〔。その後は脳梗塞を患い闘病生活を送り、2005年7月21日に自宅にて死去した〔。。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ロード・アルフレッド・ヘイズ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Lord Alfred Hayes 」があります。 スポンサード リンク
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