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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
フリードリヒ・ローベルト・フォルクマン(Friedrich Robert Volkmann, 1815年4月6日 - 1883年10月30日)は、ドイツのロマン派の作曲家。ザクセン王国出身。 == 略歴 == カントルの父親から、後継者となるべく音楽の手ほどきを受ける。このため父親についてオルガンとピアノを学び始め、さらにヴァイオリンやチェロにも手を伸ばし、12歳になるまでに、ウィーン古典派の弦楽四重奏曲でチェロ・パートを演奏するまでになる。1832年にフライベルクのギムナジウムに進学するかたわら、音楽をアナカーに、1836年にはライプツィヒでベッカーに師事した。ライプツィヒでシューマンに出逢って激励を受け、その後も両者は何度か再会している。 学業を了えるとプラハの音楽学校で声楽教師として務めるが、同地に長居することなく、1841年にはブダペストに移り、ピアノ教師や、「ウィーン音楽新報」紙通信員に雇われる。1852年には無名ながらも大量に作曲を続ける。《ピアノ三重奏曲 変ロ長調》 はフランツ・リストやハンス・フォン・ビューローを魅了し、両者によってヨーロッパ各地でさかんに演奏された。1854年にウィーンに進出するが、1858年にブダペストに戻る結果に終わった。 出版社グスタフ・ヘッケナストが1857年にフォルクマンの全作品を買い上げ、売り上げと関係なく定収入をもたらしてくれたおかげで、完全に作曲活動に没頭できるようになる。しかしながら1870年代初頭に、ヘッケナストのブダペストの印刷所は閉鎖されてしまう。 1864年、ウィーン訪問中にフォルクマンは、18歳若いヨハネス・ブラームスと面会して親交を結ぶ。両者は書簡において、互いに 「親しき友よ(''lieber Freund'' )」 と呼び交わしている。 1870年代は生涯における下り坂となり、作曲活動が下火を迎える。1875年から没年まで、リストが院長を務めるブダペスト王立音楽アカデミーで和声法と対位法の教授に就任。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ローベルト・フォルクマン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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