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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ローマンエンパイアは日本の元競走馬。2002年に京成杯を制した。馬名はローマ帝国から。 == 経歴 == === 戦績 === 日本中央競馬会 (JRA) 所属時代は栗東トレーニングセンターの古川平調教師の管理馬となる。2001年12月の阪神競馬場から新馬戦、さざんか賞を連勝し、オープン入りを果たした。新馬戦ではチアズシュタルクを、さざんか賞ではテレグノシスに圧勝し、のちの皐月賞で人気を集める逸材だった。 明けて2002年、東京競馬場の重賞GIII京成杯に挑戦。母にヤマニンパラダイスを持つ良血馬ヤマニンセラフィムと、父サクラローレルの初年度産駒として注目されたローマンエンパイアの両頭に人気が集中。レースは先に抜け出したヤマニンセラフィムを大外からローマンエンパイアが追い込み、際どい一騎討ちの末に1着同着となった。次に出走したのは3月、ヤマニンセラフィムと再度対戦となった中山競馬場のGII弥生賞で、ヤマノブリザードやバランスオブゲームら素質馬が集まる一戦となった。レースは逃げたバランスオブゲームを、大外を回っての直線一気で捕らえ切れず2着に敗退。騎乗した武幸四郎の仕掛けの遅さを非難する声もあったが、「負けてなお強し」という印象を観衆に焼き付けた(この弥生賞ではヤマニンセラフィムが骨折して6着と大敗、その後両者の対戦はない)。その後はクラシック第1弾GI皐月賞へ進み、タニノギムレットら強力メンバーが集ったなか、2番人気に支持されるが体調不良もあり、やや出遅れて後方のまま14着に大敗。さらに左肩跛行の症状を見せたため、長期休養に入った。 約9か月の休養を挟んだのち、翌2003年の京都競馬場のオープン特別・淀短距離ステークスで復帰。休み明けと距離短縮(2000メートル戦から一気に1200メートル戦へ短縮)の不利を感じさせない大外からの豪脚で2着に食い込み、ファンをあっと言わせたが、次走のGII京都記念は13着に大敗。この年は6戦したものの、東京競馬場のGIIIエプソムカップでの2着が目立つ程度に終わった(6戦2着2回、4着1回、6着1回)。その後、蕁麻疹を発症したため2度目の長期休養に入った。 2004年の復帰戦は小倉競馬場のGIII小倉大賞典で5着。阪神競馬場のオープン特別・大阪城ステークスでGIII京成杯以来、2年2か月ぶりの勝利を挙げた。その後2戦はGII産経大阪杯5着、都大路ステークスが11着に終わり、エプソムカップ出走へ向けての調整中に右第1指骨を剥離骨折した。幸い症状は軽く、半年の休養を経て秋の京都競馬場で復帰したが、カシオペアステークス4着、GIII京阪杯12着。その後安藤勝己騎手からダートの適性を示唆され、12月、初めてのダート戦となる阪神競馬場のオープン特別・ベテルギウスステークスで2着と健闘した。 2005年は京都競馬場のダートGIII平安ステークス8着後に脚部不安で再度休養。12月末の阪神競馬場の2005ファイナルステークスで復帰して3着。 2006年は小倉大賞典6着、大阪城ステークス2着、大阪杯10着後に脚部不安により実に5度目の長期休養に入った。 2007年は管理調教師の古川平が定年引退となったため、美浦トレーニングセンターの坂本勝美厩舎へと移籍した。中山競馬場のGIIIダービー卿チャレンジトロフィーで14着、東京競馬場のGIIIエプソムカップで15着に終わり、その4日後の6月14日にJRAの競走登録を抹消された。 その後、地方競馬の金沢・藤木一男厩舎に移籍。初戦の金沢競馬場で行われたダイヤモンド特別を制し、移籍後初勝利を挙げている。しかしその後は脚部不安などレースに出走できずに2008年3月に競走馬引退が発表された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ローマンエンパイア」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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