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===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ ー : [ちょうおん] (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
ローマン・ヴィトルト・インガルデン(Roman Witold Ingarden、1893年2月5日 - 1970年6月14日)は、ポーランドの哲学者。特に、現象学、存在論、美学。第二次世界大戦以前の著作は主に、ドイツ語で書かれ出版された。戦時中にポーランド語へと変え、そのために、存在論をめぐる主要な著作はあまり知られないままになっている。 == 生涯 == インガルデンは1893年2月5日にオーストリア=ハンガリーのクラクフに生まれる。最初のリヴィウ大学にて、カジミェシュ・トヴァルドフスキのもとで数学、哲学を。その後、ドイツのゲッティンゲン大学へ移り、エトムント・フッサールのもとで哲学を学ぶ。フッサールに、自分の最も優秀な生徒と認められ、フッサールが1916年にフライブルク大学に異動に同行し、1918年、博士論文を提出する。 博士号を取得した後は、ポーランドへ戻り、長期間中等学校の教師として教える。1925年、「Essential Fragen」でカジミェシュ・トヴァルドフスキにより、大学教授資格を得る。この論文はいまだに英語にも日本語にも訳されていない。1933年、インガルデンは教授職へ、そして『文学的芸術作品』で世に知られるようになる。 第二次世界大戦によって、大学が閉鎖されたために、1941年から1944年までの間、インガルデンのアカデミックキャリアは中断を余儀なくされる。その間、密かに戦争孤児に数学と哲学を教える。自宅を爆撃で失った後も、「The Controversy over the Existence of the World」を書き続けた。 戦争後の1945年、インガルデンはトルン大学の教授職を得たが、1946年には共産党政府により追放されてしまう。その後、ヤギェウォ大学に移るも、1946年には「唯物論の敵」である唯心論を主張した咎でまたも追放を受ける。1957年にその追放処分が解除され、ヤギェウォ大学で教育、研究、執筆活動を続ける。1970年、没。死因は脳溢血。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ローマン・インガルデン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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