翻訳と辞書
Words near each other
・ ローマ帝国支配下のギリシャ
・ ローマ帝国時代の服飾
・ ローマ帝国衰亡史
・ ローマ帝政
・ ローマ帽子の秘密
・ ローマ帽子の謎
・ ローマ広場
・ ローマ建国史
・ ローマ建国神話
・ ローマ建国紀元
ローマ建築
・ ローマ式敬礼
・ ローマ式浴場
・ ローマ教
・ ローマ教会
・ ローマ教会への手紙
・ ローマ教皇
・ ローマ教皇の一覧
・ ローマ教皇一覧
・ ローマ教皇庁


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ローマ建築 : ミニ英和和英辞書
ローマ建築[ろーまけんちく]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)
建築 : [けんちく]
  1. (n,vs) construction 2. architecture 

ローマ建築 : ウィキペディア日本語版
ローマ建築[ろーまけんちく]
ローマ建築(ローマけんちく、Roman Architecture)は、古代ローマの文化、芸術を代表する建築共和政ローマ、そしてローマ帝国の支配地域に広く残る遺跡と、ウィトルウィウスの残した『建築について』の存在により、ルネサンスに始まる古典主義建築の源泉となった。
ヨーロッパをはじめとする西方世界において、極めて重要な位置を占めるローマ建築は、エトルリア建築、そしてギリシア建築の影響を受けつつ発展していった。古代ローマにおいてギリシア美術の影響は特に強いものとなったが、古典期のギリシア建築がほとんどひとつの彫刻のように捉えられ、自己完結的であるのに対し、ローマ建築では、建築物相互の関係性、社会的要求、美的要求、その他の要素が複合して成り立っていると考えられている。そのため、ギリシア建築といえばすぐに周囲から孤立した神殿を思い浮かべるが、ローマ建築では神殿でなく、神殿やバシリカなどを包含したフォルム、円形闘技場、公共浴場などの公共施設が想起される。
また、精密に構築されたローマ水道、水道を架けるためのアーチ、建築物の天井を覆うヴォールトドームなどの優れた土木建築工学は、古代ローマの文化水準の高さを物語っている。

==概要==


ローマ建築は紀元前6世紀頃から4世紀までに形成された古代ローマの建築である。4世紀以降、ローマ帝国の行政府文化は東方に継承され、15世紀まで存続することになるが、この東ローマ帝国の建築はビザンティン建築として、ふつうローマ建築とは区別される。
古代ローマは、紀元前1世紀地中海を取り巻く広大な地域を勢力下においたが、共和政時代末期から帝政末期までの全時代を通じて、首都ローマと先進的な東方の属州蛮族の割拠する北方の建築活動は一様ではなく、当然、その意匠も地域的な差異がたいへん大きかった。ただし、概してヘレニズム文化を擁する東方属州は伝統的要素の源泉であり続け、ローマ建築の影響を受けるのが遅く〔パーキンズ(1979)(桐敷1996 p.170)。ただし、ローマ建築の導入には長い時間を要したものの、最終的にはヘレニズムの建築的伝統をも変質させ【Sear(1983)p.231】、東ローマ帝国において独自の発展を遂げることになる。〕、一方で、ガリアヒスパニアなどの北方・西方属州は様々な点で首都の建築を素早く取り入れ、これを自由に発展させていく傾向にあったと言える。地域性があったとは言え、ローマに組み込まれ、または新たに建設された都市には、ローマ市民権とともにローマ式の社会制度宗教文化が導入され、これによってローマの属州は、着実にローマ化されていった〔グリマル(1990)(北野1995 p.6)。古代ローマの主要な建築的特徴は、これらの地域に建設された都市において生み出され、洗練されたもので、W.マクドナルドはローマ建築を「都市の建築」と評している。MacDonald(1988)p.1。〕。
地中海を掌握し、地中海世界の支配者となった古代ローマは、地方から流れ込む潤沢な資本と、有力者の寄進によって活発な建築活動を行った。エトルリア建築の遺産を引き継いだ共和政時代のローマ建築は、ギリシア建築から多大な影響を受けつつ、ローマの社会に即した施設を構築し〔パーキンズ(1979)(桐敷1996 p.23)。〕、独自の建築技術であるオープス・カエメンティキウム(通称ローマン・コンクリート。古代コンクリートとも呼ばれる)を開発する。ただし、ローマン・コンクリート技術については、共和制時代の首都がギリシア芸術の影響で保守的傾向を示していたため、最初はローマ人入植地や軍事拠点となる地方都市の、目立たない場所や施設でひっそりと運用されるだけであった。
紀元前27年に帝政が敷かれると、建築を含む諸芸術は皇帝の好みを直接反映するようになり、ローマン・コンクリート技術も積極的に活用されて意匠面での革新をもたらした。このため、ギリシア建築が持つ権威は依然として高かったものの、その重要性は相対的に低下し、1世紀後半以後のローマ市では、純粋なギリシア建築の意匠を持つ建築物が建設されることはなくなった。帝国最盛期となる五賢帝時代には、首都においてローマン・コンクリートを用いた独創的かつ壮大な建築が生み出され、皇帝の手による首都、あるいはその近郊の建築活動がローマの建築を牽引する役割を担った。しかし、2世紀の四半世紀を過ぎると首都は公共建築で飽和状態となり、建築活動は停滞。続く3世紀の危機と呼ばれる時代には、首都の建築活動は完全に停止する。帝国の防衛システムが機能不全に陥ったことで、北方から北東部、東方では大規模な内戦や他民族の侵入が頻発するようになり、これらの地域の建築活動もまた著しく低下した。この時期、ローマ建築は交易によって経済的繁栄を謳歌していた北アフリカ沿岸部の都市で維持された。
3世紀末になると、首都の建築活動は再開されるが、ローマ帝国を取り巻く環境は大きく変化していた。ローマ市は首都としての名誉は得ていたものの、もはや帝国の中心都市ではなく、その活動はテトラルキアによって選ばれた都市〔四分統治の中心となったのは、それぞれニコメディアシルミウムアウグスタ・メディオラヌムアウグスタ・トレウェロルムである。テトラルキアが終焉を迎えると、東西の中心都市としてビュザンティオンラヴェンナが開発される。〕に継承された。また、帝国各地では伝統的なローマの神々ではなく、東方の宗教が信仰されるようになり、その施設が各地に建設されるようになった。コンスタンティヌス1世によってキリスト教が公認されると、ローマ建築はキリスト教の礼拝空間を生み出す素地としての役割を果たした。
395年テオドシウス1世の死によって、ローマ帝国は西と東に分裂したまま二度と統合されなかった。西ローマは476年に消滅し、情勢不安、異民族の侵入、戦争などの渦の中でその建築も徐々に消滅していった〔ただし、現存するカロリング朝建築(9世紀)はローマ建築との連続性を感じさせる。これはカロリング朝ルネサンスの賜物であるが、その後の混乱の時代にローマ建築の遺産は完全に失われる。ペヴスナー(1943)(小林・山口・竹本1993 pp.39-50)。ロマネスク建築も参照。〕が、東方ではその経済力と技術力によって、ローマ建築はさらに発展していくことになる(以降のローマ建築については、ビザンティン建築を参照)。都市建設、土木技術に優れる。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ローマ建築」の詳細全文を読む




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.