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ワイオミングの戦い(ワイオミングのたたかい、)は、アメリカ独立戦争の1778年7月3日、ペンシルベニアのワイオミング・バレーで起きた愛国者軍と、ロイヤリストとイロコイ族連携部隊との戦闘である。300人を超える愛国者が殺された。 戦闘後、イロコイ族襲撃者達が逃げる愛国者を追い回して殺し、降伏した者30ないし40名に対しては儀式的な拷問を加えて死ぬまで苦しめたという噂を開拓者達が広めた。 == 背景 == 1777年、イギリス軍将軍ジョン・バーゴインが、ハドソン川流域の支配を巡って作戦を展開した。バーゴインはこの年10月に、サラトガの戦い後に降伏を強いられた。この報せを聞いたフランスはアメリカと同盟を結んで戦争に参戦した。以前のフレンチ・インディアン戦争でフランスはヌーベルフランスを失っており、イギリス軍はフランスがそこを取り返しにくるのではないかと心配し、ケベック植民地では防衛的姿勢で臨むことにした。実際には仏米同盟条約でそのような作戦を行うことを具体的に禁じていた。イギリス軍に徴兵されたロイヤリストと同盟インディアンは、13植民地の北部と西部境界付近でフロンティア戦争を続けた〔Nester, p. 189〕。 ロイヤリストのジョン・バトラー大佐はそのためにロイヤリストの1個連隊を立ち上げた。一方セネカ族の酋長サエンクラータとコーンプランターは主にセネカ族の戦士を集め、ジョセフ・ブラントは主にモホーク族の戦士を集めて、フロンティアの開拓者に対するゲリラ戦に備えた。1778年4月までに、セネカ族はアリゲイニー川やサスケハナ川沿いの集落を襲撃してきており、ブラント隊は5月にコーブルスキルを襲撃した。6月初めには、バトラー隊を含むそれらの集団がタイオガのインディアン集落で合流した。バトラーとセネカ族はワイオミング・バレーを攻撃し、ブラントとモホーク族はさらに北の集落に向かうこととした〔Nester, p. 191〕。 アメリカ側のジョージ・ワシントンやラファイエットなど軍事指導者達も、ケベックにいるイギリス軍をそこに留めておくための牽制として、イロコイ族を徴兵しようとしていた。しかし、その試みもあまり成功には繋がらなかった。イロコイ連邦を構成する6部族の中でオネイダ族とタスカローラ族のみがアメリカ側の同盟部族になった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ワイオミングの戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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