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若鷹 若鷹 (急設網艦)
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ワカタカは1930年代初頭に活躍した日本の競走馬。1932年に第1回東京優駿大競走(日本ダービー)で優勝した。半兄にハツピーチヤペル(帝室御賞典〈東京〉)がいる。主戦騎手は函館孫作。 * 馬齢表記は競走名などをのぞき現在のものに統一する。 == 概要 == ワカタカは1929年、千葉県の下総御料牧場で生まれた。馬主は中山競馬場の創設に尽力した乾鼎一で、調教を手掛けたのは中山競馬場の東原玉造である。3歳になった1932年3月26日、中山競馬場でデビューしたが、初戦は5着に敗れた。3週間後に東京競馬場で行われた新呼戦で2着に10馬身差で圧勝した。この後、この年から新設された東京優駿大競走に出走した。 この東京優駿大競走は、現在の東京優駿(日本ダービー)に相当する競走である。1932年に目黒にあった東京競馬場で第1回が行われた。1着賞金は1万円(付加賞1万3530円)。右回りの別定戦で、現在とは条件がやや異なっている。NHKラジオによって全国中継放送が行われた。 出走馬は19頭立てであった、その中でも前走10馬身差で圧勝していたワカタカは1.95倍の断然の1番人気に推されていた。レースは函館孫作騎乗のワカタカが人気に答えてオオツカヤマに4馬身差をつけ逃げ切り勝ちを収めた。このとき、騎手の函館は東原が騎乗について細かい指示をするのに対し「ごちゃごちゃ言うな。お前とオレとじゃ腕が違う。今日のレースはオレにまかせとけ」と言い放ち、意表を突いた逃げ切り勝ちを収めたと、函館の弟子だった鈴木勝太郎は述懐している。 ワカタカは東京優駿大競走以後も活躍し、帝室御賞典(東京)、横浜特別などの大競走に優勝している。現役最後のトーナメントレースでは、71 - 73キロの斤量を背負い、3日間で2勝2着1回の貫禄を見せた。 引退後は日高種馬牧場で国有種牡馬として繋養されたようだが、サラ系(3代母がミラ)であったことも災いし成功することはできなかった。産駒のほとんどが中間種で、競走馬になった馬もほとんどがアラブ競走で走っていたという。1943年に廃用、その後静内農学校(現在の北海道静内高等学校)で乗用馬として供用され、1945年に慢性肺気腫により死亡した。死亡後、ワカタカの亡骸は静内農学校の用地内に埋葬されている。 ワカタカの出走シーンは2012年の日本中央競馬会「近代競馬150周年テレビCM〜「次の夢へ」〜」(30秒版・60秒版)に使用されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ワカタカ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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