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ワシントン焼き討ち(ワシントンやきうち、)は、米英戦争終盤の1814年8月、イギリス軍がアメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.を攻撃したものである。8月24日のブラーデンスバーグの戦いでイギリス軍が勝利した後、ロバート・ロス少将が指揮する軍隊がワシントン市を占領し、ホワイトハウスやアメリカ合衆国議会議事堂など多くの政府関係の建造物に火を点けた。イギリス軍指揮官は公的な建物のみを焼くように命じ、軍隊内の規律を厳しく保たせたことで、民間の建造物は保護されることになった。 アメリカ合衆国の歴史を通じて、ホワイトハウスやワシントンD.C.を焼いた国はイギリスのみであり、アメリカ独立戦争以降、外国の軍隊がアメリカ合衆国の首都を占領した唯一の例となった。 == 攻撃の理由 == 1814年4月、ナポレオン・ボナパルトの敗北と追放に続いて、イギリスはアメリカ合衆国との戦争につぎ込む兵士と艦船を集めることが可能になった。イギリスの陸軍・植民地大臣バサースト伯爵は、バミューダ諸島に軍隊を派遣した。米英戦争を通じて、そこからアメリカ海岸を封鎖したり、海岸の島を占領したりしていた。当初はアメリカ合衆国政府がカナダに対して作戦展開するのを止めさせるために、これらの軍隊を使うつもりだった。1814年初期、海軍中将アレクサンダー・コクラン卿がイギリス海軍の北アメリカ・西インド艦隊の総司令官に指名されていた。コクランは既にバージニア州やニューオーリンズに攻撃を掛けることでアメリカ合衆国に対する戦争遂行の作戦を持っていた。 海軍中将ジョージ・コックバーンが前年からチェサピーク湾の戦隊を指揮していた。6月25日、コックバーンはコクランに宛てて手紙を書き、その地域の防衛力が弱く、主要都市の幾つかは攻撃に対する耐性が無いと強調していた。コクランはボルチモア、ワシントンおよびフィラデルフィアに対する攻撃を提案した。7月17日、コックバーンはワシントンが比較的攻撃も容易であり、「大きな政治的効果が生まれる可能性がある」ので、ワシントンを標的にすることを推奨した。 イギリス軍がアメリカ合衆国の町や都市を攻撃する動機として、その年5月にアメリカ軍が「エリー湖北岸の民間資産を理不尽に破壊したこと」に対する報復という意味合いもあった。その最たるものがポートドーバーに対する襲撃だった。1814年6月2日、カナダの軍政府長官ジョージ・プレボスト卿が、バミューダのベイリーズベイにいた海軍本部のコクランに宛てて手紙を書き、アメリカが非戦闘員の市民と民間資産にたいして略奪行為を行ったことに対する報復を要求した。当時そのような行為は戦時国際法に違背すると考えられていた。7月18日、コクランはコックバーンに対し、「敵が同様な暴虐を繰り返すことを阻止し、...攻撃できると判断できる町や地区を破壊し荒らすよう求められ指示される」と告げる命令を発した。コクランは「アメリカ合衆国の武装していない住人の生命は単に見逃すことになる」とも伝えていた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ワシントン焼き討ち」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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