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ワシーリー・ニコラエヴィッチ・ゴルドフ(、1896年11月30日 - 1951年12月12日)は、ソ連の軍人。大将。ソ連邦英雄。 ==経歴== カザン県マトヴェーエフカ村(現タタールスタン共和国メンゼンリンスキー地区)の農家出身。1915年、ロシア帝国軍に召集され、先任曹長で終戦を迎えた。 1917年12月、赤衛隊に入隊。1918年から全連邦共産党(ボリシェヴィキ)に入党。ロシア内戦時、東部及び西部戦線で中隊、大隊、連隊を指揮し、マフノ匪賊の殲滅に参加した。内戦終結後、各職を経て、1925年、上級指揮要員課程を修了。1925年~1926年の間、モンゴル人民軍の教官を務めた。1927年、「射撃」課程を修了し、狙撃連隊長補佐。1932年、M.V.フルンゼ名称軍事アカデミーを卒業。1933年~1935年、モスクワ歩兵学校参謀長、その後、狙撃師団参謀長。1937年、狙撃師団長。1939年、カリーニン軍管区参謀長、1940年、沿ヴォルガ軍管区参謀長。 独ソ戦時、第21軍参謀長(1941年6月~9月)、第21軍司令官(1941年10月~1942年6月)、スターリングラード戦線司令官(1942年6月~9月)、第33軍司令官(1942年10月~1944年3月)、第3親衛軍司令官(1943年4月~1945年5月)を歴任し、スターリングラード攻防戦、ルジェフ・ヴャゼム、スパス・デメン、スモレンスク作戦、ウクライナとポーランドの解放、ベルリン及びプラハ作戦に参加した。 戦後、沿ヴォルガ軍管区司令官に任命。1950年、コルホーズとスターリン個人について私見を述べたため逮捕され、獄死した。死後、名誉回復。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ワシーリー・ゴルドフ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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