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ワタル・ミサカ(、、1923年12月21日 - )は、日系アメリカ人(二世)の元バスケットボール選手。 なおニックネーム「Wat Misaka」の発音は「ワット・ミサカ」が正しい(右テンプレートの下にあるバラク・オバマアメリカ合衆国大統領の映像を参照)。ただ日本では「ワッツ・ミサカ」として紹介され現在でも一部メディアで用いられているため、本表題でもそれに従う。 非白人のバスケットボール選手として史上初のNBAプレーヤー。ポジションはポイントガード。ユタ大学卒。 == 来歴 == === 若年期 === 両親は広島県御調郡岩子島村(現尾道市向島町岩子島)出身。父は1902年(明治35年)母は1922年(大正11年)にアメリカへ移民し結婚、ユタ州ウィーバー郡オグデンで理髪店「バーバー・ミサカ」を営んだ〔。オグデンで3人の息子を産み、ワタル・ミサカはその長男〔。幼い頃は兄弟と様々なスポーツを楽しんだ〔。当時から日本語を話すことはあまりなかった。 1939年、父が死去する。以降、父の代わりとして兄弟の面倒を見、母に経済的な負担をかけない進路をとる〔。本格的にバスケをやりだしたのもこの頃である。地元では1940年ユタ州の大会で優勝し、1941年ウィーバーカレッジに進学すると2度カンファレンス優勝し大会優秀選手に選出された〔。 当時第二次世界大戦中で、1941年12月日本による真珠湾攻撃から日米間での本格的な戦争が始まると日系人は全米で虐げられていき、1942年から日系人の強制収容が始まった。ただユタ州はその中でも比較的寛大な方だったことから、ミサカ自身アメリカ兵の友人を持ちウィーバーカレッジでバスケをするという幸運に恵まれた〔。当時の地元紙でウィーバーの「Wat Misaka」の活躍が報道されている(右の動画参照)。1943年春にカレッジを卒業する〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ワッツ・ミサカ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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