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ワーデル・ケゼルグ(''Wardell Quezergue'', 1930年3月12日 - 2011年9月6日)は、米国の作曲家、編曲者、プロデューサー、指揮者、バンドリーダー。ニューオーリンズのミュージシャンの間で、「クレオールのベートーベン」として知られた。 == 来歴 == 1940年代後半、デイヴ・バーソロミュー楽団で活動。続く朝鮮戦争における軍隊所属ミュージシャンとしての経歴を経て、50年代半ばにロイヤル・デュークス・オヴ・リズムで、自身の活動を開始する。また、彼はプロフェッサー・ロングヘア、ファッツ・ドミノら、ニューオーリンズの大物ミュージシャン達の編曲者としても活躍するようになった。 1964年にNOLAレコードを設立。同レーベルからは、ロバート・パーカーの「Barefootin'」がR&Bチャート2位のヒットを記録した他、エディ・ボー、ウィリー・ティー、スモーキー・ジョンソンらがレコードをリリースした。のちにケゼルグはキング・フロイドの「Groove Me」、ジーン・ナイトの「ミスター・ビッグ・スタッフ」などをレコーディングする。スタックス、アトランティックらの大手レーベルが、売れる見込みがないとして興味を示さなかったのを受け、ケゼルグはこれらの曲を当時経営難だったマラコへ持ち込み、同レーベルから全国的ヒットとなったのだった。 これらの実績から、70年代にはケゼルグの編曲者として評価は高まり、またマラコ・スタジオも人気のスタジオとなった。同スタジオを使ったアーティストには、ポール・サイモン、ウィリー・ネルソン、B.B.キングらがいる。 ケゼルグは、ドクター・ジョンの1992年のグラミー賞受賞作品、「Going Back To New Orleans」のプロデューサー、編曲者を務めた。既にクラシック音楽の作曲家、指揮者としての評価も得ていた彼だが、2000年には自身の朝鮮戦争における経験を基にした作品、「A Creole Mass」を発表した〔A Creole Mass 〕。 2005年、法律上の盲人となっていた彼はハリケーン・カトリーナで被災し、財産の殆どを失ってしまった〔Living Legend Now In Fort Worth Tells Story Of Survival(NBC News) 〕。翌年の7月30日、ドクター・ジョンが呼びかけ、R.E.M.のマイク・ミルズが支援する形で、ケゼルグへのベネフィット・コンサートがシカゴで開催された〔The Times-Picayune) ">Quezergue feted in Chi-town (The Times-Picayune) 〕。 2011年9月6日、鬱血性心不全のため死去〔New Orleans Producer, Arranger Wardell Quezergue passes away Music News 2011-9-6〕。 。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ワーデル・ケゼルグ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Wardell Quezergue 」があります。 スポンサード リンク
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