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ヴァシリ・グリゴーリエヴィチ・ザイツェフ(、ラテン文字表記:Vasilij Grigor'evich Zajtsev、1915年3月23日 - 1991年12月15日)は、第二次世界大戦中活躍したソビエト連邦の狙撃兵。終戦時の階級は大尉。1943年1月に目を負傷するまでスターリングラード攻防戦で活躍。257人の敵兵を殺害、ソ連邦英雄、ヴォルゴグラード名誉市民などの称号を得た。 == 経歴 == 現在のチェリャビンスク州に位置するエリノ町(現:アガポフスキー地区)出身。ロシア人。もともとはウラル山脈の狩猟の名手であった。マグニトゴルスクの建築専門学校を卒業。1936年から海軍に入隊し、軍事経済学校を卒業。第二次世界大戦当初は、ロシア太平洋艦隊の会計班長だった。 ザイツェフはウラル山脈で育ち、鹿の狩猟によって射撃技術を磨いた。ザイツェフはロシア・ウサギを意味する「ザーイカ」の物主形容詞から作られた姓。そのため、彼が指導した狙撃手達は「子ウサギ」を意味する「ザイシャ」とあだ名を付けられた。 1942年9月から第284狙撃師団に所属する第1047狙撃連隊に配属され〔因みにここでの「狙撃」はRifle DivisionやRifle Regimentの慣例的な訳(ないしは誤訳)であって、普通の歩兵を意味する。決して師団や連隊を構成する兵すべてが狙撃兵なわけではない。〕、スターリングラード攻防戦に参加した。彼は1942年11月10日から12月17日までの間に225人のドイツ軍将兵を倒している。この中には中尉を含んだ11人の狙撃兵も含まれる。彼は11月10日以前にも、特別仕様でないモシン・ナガン・ライフルで32人のドイツ兵を倒した。ザイツェフは化学工場の廃墟に設けた狙撃兵訓練学校で28人の兵士を狙撃手として育成し、結果として3,000人以上のドイツ兵が戦死したと云われている。 彼の評判は口伝えに全ソビエト軍に広まっていった。これによって不十分な装備しか与えられず、疲れ切って、空腹に苦しむ前線の兵士達は勇気付けられたのである〔http://www.warheroes.ru/hero/hero.asp?Hero_id=481〕。 1943年1月に目を負傷したが、フィラトフ教授の治療によって視力を回復することが出来た。その後前線に復帰し、大尉に昇進。ドニエプル川近郊で終戦を迎えた。戦時中、狙撃手のための教範2冊を執筆しており、それによれば、彼の狙撃手法は2人1組のペア3組で同一地帯をカバーする6人組(シェスチョールカ、''шестерка'')であったことが示されている。 戦後はキエフの工場の管理職を歴任した。1991年12月15日死去。彼は生前ヴォルゴグラードに埋葬されることを希望していたが、キエフに埋葬された。 2006年1月31日、ザイツェフの遺骸はヴォルゴグラードのママエフ・クルガンに改葬された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヴァシリ・ザイツェフ」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Vasily Zaytsev 」があります。 スポンサード リンク
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