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ヴァラジュディン (Varaždin 、ドイツ語: Warasdinヴァラシュディン, ハンガリー語: Varasd, ラテン語: Varasdinum)は、クロアチア北西の都市。首都ザグレブの北81kmにある。ヴァラジュディン郡の中心地で、ドラヴァ川に近い。バロック様式の建築物、織物、食品、IT企業で知られる。 ==歴史== ヴァラジュディンが初めてその名を現したのは1181年、ハンガリー王ベーラ3世が近郊にある温泉(現在のヴァラズディンスケ・トプリツェ)について公式の記録で言及した際である。 ヴァラジュディンは、1209年にアンドラーシュ2世によって自由王立都市の特権を授けられた。町はクロアチア北部の経済・軍事の中心となっていった。オスマン帝国のヨーロッパ侵攻のため、町は古い要塞周囲を守勢の構造に組み立て、典型的な中世の水城(Wasserburg)の外観となった。13世紀初頭、聖ヨハネ騎士団(クロアチア語:Ivanovci)がヴァラジュディンへやってきて、教会と修道院を建てた。 14世紀終わり、ヴァラジュディン要塞はツェリェ伯の手に渡った。その後の数世紀、ヴァラジュディンの所有権は転々とし、最も影響力を持ったクロアチア貴族ベアトリツェ・フランコパン、そしてブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯ゲオルクがタウンホールを建設した。最後の所有者であるイヴァン・ウングナド男爵は防衛設備を増強した。16世紀終わりにはトマ・バカツ・エルジョディ伯(en)が所有者となり、ヴァラジュディン地方を治める世襲の地位を我がものとした。要塞は1925年までエルジョディ家が所有権を保持した。 1756年、バンであるフランヨ・ナダスディはヴァラジュディンに自身の公邸を設け、ヴァラジュディンは全クロアチアの首都となった。クロアチア議会(Sabor)の開催地であり、女帝マリア・テレジアによって創設されたクロアチア王立会議の開催地であった。 宗教改革と反宗教改革の時代、ヴァラジュディンは大きな影響を受けた。イエズス会がヴァラジュディンへやってくると、学校と修道院がつくられ、教会と修道院がバロック様式で建てられた。18世紀、ヴァラジュディンは多くのクロアチア人貴族の本拠地となり、1756年にはクロアチアの行政上の中心となった。1776年の大火では町の大半が焼かれ、結果として行政機能がザグレブへ戻ることになった。 19世紀より、ヴァラジュディンは完全に再建され、拡張し、工芸と貿易が華開いた。後には絹とレンガの産業がそれに続いた。劇場、音楽学校、消防署が建てられた。 20世紀、ヴァラジュディンは北西クロアチアの産業中心地として成長した。織物の製造業者Tivarは1918年に創設された。1991年のクロアチア紛争では、ヴァラジュディンはわずか数日しか直接の被害を受けなかった。それは大規模なユーゴスラビア人民軍が素早く降伏し、そのために犠牲者の数が少なく済み、武器がクロアチア軍へ供給されたからだった 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヴァラジュディン」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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