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ヴァリャーグからギリシャへの道(ヴァリャギからグレキへの道)(、、)は、河川にそってルーシを縦断し、またバルト海を越えてスカンディナヴィア、黒海を越えて東ローマ帝国へも至る水上交易路である。8世紀から13世紀にかけて存在したこの交易路を通して、バルト海沿岸に住むヴァリャーグは、行動範囲を東欧南部やアナトリア半島まで拡大させた。またルーシの商人は、この道をスカンディナヴィアやコンスタンティノープルとの交易のために利用した。ルーシの歴史を記した『原初年代記』では、この道は「」(ヴァリャギからグレキへ)と記されている。 (留意事項)以下の「主幹ルート」・「分岐ルート」の名称は、説明上便宜的に用いた用語である。また「ルーシ」はおおよそキエフ大公国の支配領域を指す。地名は現在の現地の言語の転写表記よりも、歴史学的文献等において一般的と思われる表記を優先している。 == 地理 == 主幹ルート 年代記に記された「ヴァリャーグからギリシャへの道」を、現在の地名にあてはめるならば、古代のスカンディナヴィアの商業の中心地である、ビルカ、ヴィスビュー、バルト海南岸などが北の起点である。西方へは、バルト海を横切りドイツ北岸の、、リューゲン島の、ポーランド北岸のシュチェチン等へいく海路が存在した。 ルーシの地での航路はまずフィンランド湾へ入り、フィンランド湾に注ぐネヴァ川を遡上、さらにラドガ湖、ヴォルホフ川、イリメニ湖、ロヴァチ川、クーニヤ川、セリョージャ川というように、合流する河川や湖を船で乗り継いでいく。河川の道が途切れた後は、を船を引きずってタローパ川まで進む。タローパ川から再びダウガヴァ川(西ドヴィナ川)、カースプリャ川、カースプリャ湖(ru)と河川をたどっていくと、そこにはがあり、またドニエプル川へつながる小川までの連水陸路があった。再び陸路を船を引きずって小川へ入り、小川からドニエプル川へ、そしてドニエプル急流(uk)を越えて黒海へと至った。ルーシの平原は勾配が少なく、小さな船でも航行が容易だった〔『ポーランド・ウクライナ・バルト史』12頁〕。 黒海では、商人たちはヨーロッパ側の海岸沿いをコンスタンティノープルまで向かった。黒海を航海するには、ドニエプル中州の、あるいは河口付近ので船に帆を取り付けた。黒海上では停泊地としてはドナウ・デルタ近くのがあるのみだった。 分岐ルート・他の交易路との接続 上記のルートに加え、複数の分岐路があった。たとえばルーシ北部には、ポロツクを通り、ダウガヴァ川を下ってバルト海へ直接出る最短の航路があった。また、ドルツィ川まで陸路を採り、そしてドニエプル沿いに黒海へ出る方法もあった。このルートの存在は、スモレンスクの西12kmにある居住地域跡の二つのクルガンから証明することができる。この地のクルガンのうちNo.38とNo.47は、スカンディナヴィアとバルトの文化の影響を確実に受けている。 黒海にもまた分岐路があった。クリミア半島の付根のペレコープ地峡を越えてアゾフ海へと向かうルートである。かつてペレコープ地峡を横切る古代の運河があったが、時と共に運河は砂礫で埋まり、深い森へと変わったという。アゾフ海からはドン川を遡り、その後ドン川左岸の支流のイローヴリャ川に沿って航海し、ヴォルガ川右岸の支流に向かう連水陸路を進み、さらにヴォルガ川から河口のカスピ海へと至った。なお、ヴォルガ川やカスピ海はヴァリャーグからペルシアへの東の水の路(ヴァリャーグからハザールへの道、もしくはブルガールへの道。)の一部でもあった。さらにいえば、そもそも黒海自体が、南ブーフ川、ドニエストル川、ドナウ川を通じて西欧へと至る商業路の要衝だった。地中海にはイタリアの港湾都市を含む、ヨーロッパ大西洋岸への航路が存在した。おびただしい数の資料や考古学上の発見が、航路の存在を証明している。 主幹ルートの地域区分 歴史学の中には、「ヴァリャーグからギリシャへの道」を3つの主要地域に分ける見解もある。1つ目は北部のスモレンスク-ノヴゴロド-バルト海間の、ルーシ北部と北欧を結ぶルートである。その上この地域は、13世紀にはハンザ同盟と共に重要な交易を行っていた地域でもある。2つ目はルーシ南部とバルカン半島とをつなぐ、キエフ-コンスタンティノープル間の地域である。13世紀の半ばまで、東ローマ帝国とキエフ大公国には有力者の交流があった。3つ目はキエフ-ノヴゴロド間である。この部分の道は、キエフ大公国内の商業と交通を主たる目的として使用された。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヴァリャーグからギリシャへの道」の詳細全文を読む 英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Trade route from the Varangians to the Greeks 」があります。 スポンサード リンク
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