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ヴァンドーム広場()とはパリの1区にある四角い広場で、テュイルリー宮殿の北、マドレーヌ寺院の東に位置する。ヴァンドーム広場はラ・ペ通り(Rue de la Paix、「平和通り」の意。高級ブランド店が並ぶことで有名)の始点でもある。ジュール・アルドゥアン=マンサールによる規則的な建築と、角のところで斜めになっているペディメントの仕切りとで、長方形のヴァンドーム広場は八角形に見える。 カトリーヌ・ドヌーヴ主演の映画のタイトルにもなっている(『ヴァンドーム広場』 ''Place Vendôme'' 1998年 フランス映画)。 == 歴史 == 仮設での使用の後、ヴァンドーム広場は1702年にルイ14世の栄光を称えるために敷設され、「征服広場」(Place des Conquêtes)から「ルイ大王広場」(Place Louis le Grand)へと名前を変えたが、この時期フランスは占領地を失いつつあった。王の騎馬像も、広場の中央に設置された。 ナポレオン1世はアウステルリッツの戦勝を祝賀して、トラヤヌス記念柱を模したコラム(円柱)を建てたが、これは現在も広場にある。コラムには浅い浮き彫りを施したブロンズの延べ板が螺旋状に巻きつけられている。この彫刻はピエール=ノラスク・ベルジェレ(Pierre-Nolasque Bergeret)によるもので、彼のプロパガンダによればブロンズは、ヨーロッパ連合軍から奪い取った大砲を材料にしているという(133もの大砲がアウステルリッツで獲得されたというが、こういった数字は通常かなり誇張されているものである)。 ナポレオン失脚ののち、皇帝像はコラムの上から降ろされ、そのブロンズはポン・ヌフの上のアンリ4世の騎馬像を作り直すために提供された。ナポレオン像はルイ・フィリップ王によって再度掲げられ、より古典的で堂々とした像がナポレオン3世によっても作り直されている。 パリ・コミューン期の1871年、画家クールベは、コラムをばらばらにして再度組み立てるようアンヴァリッドで提案している。クールベは次のように主張した。
この計画は却下されたが、1871年4月12日帝権の象徴を分解することは決議され、5月8日コラムは倒された。再建の予定はなかったが、ブロンズの延べ板は保存された。アドルフ・ティエールがパリ・コミューンを攻撃した後、議会はナポレオン像とコラムの再建が決定された。かつての主張に基づいてクールベは費用を一部支払うことを余儀なくされ、それにより破産した。 この四角い場所は以前ヴァンドーム公セザールの館だった。彼はアンリ4世と愛妾ガブリエル・デストレの間に生まれた庶子である。マンサールは、これを建築用地とするつもりで建物と庭園を買い取ったが、この計画は実現しなかった。ルイ14世の陸軍大臣ルーヴォワ侯は土地の一画を買い取って、前の世紀ヴォージュ広場で成功したように、ここにも広場を建設しようと考えた。しかしルーヴォワは財政難に陥り、彼の計画も頓挫した。ルーヴォワの死後、王がその区画を購入した。王はマンサールに家のデザインを依頼し、それにより広場の周りの区画を購入した人々に、家の正面を広場に向けることに同意させようと考えた。財政が赤字になったとき、実業家のジョン・ローが計画を引き継ぎ、広場に面した一画に自分自身の住居を建てた。1720年までに広場は完成していたが、ちょうどそのころミシシッピ計画が破綻してバブル経済がはじけている。ローは大打撃を受け、何千万ドルにも達する税金を払い戻さなければならなくなった。そのような大金を返済する方法もなく、彼は広場に面した所有地を売らなければならなかった。購入者はかつて追放されたシャトールー一族で、その後故国に戻ってヴァンドームで自分たちの地を再生しようとしていたのだった。1720年から1797年までの間に、シャトールー一族は広場のほとんどを取得した。そこにはオテル・リッツ・パリが建つ土地や、彼らが現在も経営するアパートメントの借地権も含まれている。この土地に一族の宮殿を取り戻したいという一族の意向は、隣接した法務省の敷地を拡張しようという意向に左右される。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヴァンドーム広場」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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