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ヴィジャヤナガル王国(ヴィジャヤナガルおうこく、、、、、、)とは、14世紀初頭から17世紀中頃にいたるまで、カルナータカ州南部およびアーンドラ・プラデーシュ州南部、言い換えれば、トゥンガバドラー川およびクリシュナ川以南からコモリン岬に至る南インドを支配したヒンドゥー王朝(1336年 - 1649年)。ヴィジャヤナガル朝(Vijayanagar dynasty)とも呼ばれる。首都はヴィジャヤナガル、ペヌコンダ、チャンドラギリ、ヴェールール。 サンガマ朝(Sangama dynasty, 1336年 - 1486年)、サールヴァ朝(Saluva dynasty, 1486年 - 1505年)、トゥルヴァ朝(Tuluva dynasty, 1505年 - 1569年)、(Aravidu dynasty, 1569年 - 1649年)の4つの王朝が交替してヴィジャヤナガルに首都を置いた〔ただし、アーラヴィードゥ朝は、ペヌコンダ、チャンドラギリ、ヴェールールに首都をおいたために除く場合もある〕ため、総称的に首都名を王国の名称に冠している。 == サンガマ朝 == ===ヴィジャヤナガル王国の建国=== 14世紀以降、デリー・スルターン朝によって、デカンや南インド各地にあったヒンドゥー王朝は次々と滅ぼされ、1317年ヤーダヴァ朝がハルジー朝に滅ぼされ、1323年にパーンディヤ朝とカーカティーヤ朝がトゥグルク朝に滅ぼされた〔辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.124〕。 有力な説では、ヴィジャヤナガル王国の建国者であるハリハラとブッカの兄弟は、デカンのカーカティーヤ朝(あるいは南インドのホイサラ朝)に仕えていたとされ〔辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.149〕、1323年にトゥグルク朝の遠征軍が両王朝を攻めており、彼ら二人を捕虜にした。のち、2人はデリーに連行され、イスラーム教に改宗して、トゥグルク朝の君主ムハンマド・ビン・トゥグルクに仕えたとされる〔辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.149〕。 1334年以降、ムハンマド・ビン・トゥグルクの失政により各地で反乱が起き、同年には南インドのタミル地方で地方長官が独立して、マドゥライ・スルターン朝が成立するなど、南インドも不穏な状態となった。 当時、ムハンマド・ビン・トゥグルクはハリハラとブッカを南インドのカルナータカ地方に派遣してその統治に当たらせていたが、彼らもまたヒンドゥー勢力を結集してトゥグルク朝から独立を考えるようになった〔辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.149〕。 こうして、1336年にハリハラとブッカはトゥグルク朝から独立を宣言し、トゥンガバドラー川の南岸の都市ヴィジャヤナガル(勝利の都)を都に、ヴィジャヤナガル王国を建国した。また、彼らはこの地方の宗教指導者であったヴィディヤーラニヤにより、イスラーム教からヒンドゥー教へと改宗している〔辛島『世界歴史大系 南アジア史3―南インド―』、p.149〕。 そして、この第1王朝はハリハラとブッカの父サンガマの名を取って、サンガマ朝と名づけられ、初代の王には兄ハリハラがハリハラ1世として即位した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヴィジャヤナガル王国」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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