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ヴィルヘルム・フィルヒナー : ミニ英和和英辞書
ヴィルヘルム・フィルヒナー[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

フィル : [ふぃる]
 【名詞】 1. fill 2. (n) fill
: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ヴィルヘルム・フィルヒナー : ウィキペディア日本語版
ヴィルヘルム・フィルヒナー[ちょうおん]

ヴィルヘルム・フィルヒナー(''Wilhelm Filchner'' 、1877年9月13日 - 1957年5月7日)は、ドイツ探検家ユーラシア内陸部および南極探検した。
== 生涯 ==
ミュンヘンで育ち、15歳でバイエルン王国陸軍に入隊した。
21歳でロシア帝国への探検旅行に参加した。これをきっかけに、2年後の1900年より独力でロシアへの探検旅行に出発し、コーカサス山脈キルギスタンなどユーラシア奥地の秘境を旅した。この時、キルギスタンのオシを出てワハーン回廊を経て清領のタシュクルガンへ至る馬でのパミール高原横断を成功させた。この探検でフィルヒナーの名はバイエルンでよく知られるようになった。1903年から1905年にはチベットへの探検隊の指揮を任されている。
チベット探検からドイツへ戻ってきたフィルヒナーは、当時海岸線の形も内陸の様子も未知であった南極大陸へ探検隊を送ることを考えた。1908年には予行演習としてスピッツベルゲンへの探検を行い、1910年3月にベルリンで具体的な南極探検計画を発表した。この探検はドイツにとってはエーリッヒ・フォン・ドリガルスキーによるガウス号探検(1901年 - 1903年)に続く2回目の南極探検であり、南極を横断して、この陸地が果たして一つの大陸であるか否かを探るというのが主な目的であった。資金はあっという間に集まり、探検用の船ドイッチュラント号を買うことができた。
1911年5月4日、ドイッチュラント号はブレーマーハーフェンを出港して南極に向かった。探検隊はウェッデル海に入り、その80年前にウェッデル海を航海したジェームズ・ウェッデルよりも南奥へと進んで〔

南極大陸へと接近した。彼らはコーツランドの西端部分の海岸を発見し、バイエルン摂政ルイトポルト・フォン・バイエルンにちなんでルイトポルド・コースト(Luitpold Coast)と名付けた。さらにルイトポルド・コーストから西のウェッデル海が巨大な棚氷に覆われているのを発見した。この棚氷をフィルヒナーはドイツ皇帝ヴィルヘルム2世にちなんでカイザー・ヴィルヘルム棚氷と名付けた。後にヴィルヘルム2世はフィルヒナーの探検を評価してフィルヒナー自身の名を付けるよう薦めたため、現在ではフィルヒナー棚氷と呼ばれており、ウェッデル海南部を覆うフィルヒナー・ロンネ棚氷の一部とされている。
彼らは棚氷の上に越冬用の基地を作ったが、棚氷の崩落により基地は失われた。1912年3月にはドイッチュラント号も流氷に閉ざされ、探検隊は船内で越冬することになった。ドイッチュラント号は結局、12月まで氷から出ることができないままウェッデル海を漂流した。漂流中の6月には、1823年アメリカアザラシ猟船の船長ベンジャミン・モレルが発見報告した「ニューサウスグリーンランド」の位置に接近したため、フィルヒナーはその再発見をしようとしたが、陸地らしきものは見つからず、モレルは陸地でなくおそらく蜃気楼を見たのだと結論付けた。ドイッチュラント号は氷から脱出し、サウス・ジョージア島に戻ることに成功したが南極横断という目的は果たされないまま終わった。
フィルヒナーは再びアジア内陸部の探検へと戻り、ネパールやチベットへ多数の探検旅行に出ている。1926年から1928年は自費での青海湖周辺探検に出、1934年から1937年にかけてはドイツ政府によるチベット探検を指揮し、戻るとドイツ芸術科学国家賞アドルフ・ヒトラーノーベル賞に対抗して創設した賞)を受賞している。1939年からはネパール探検に出たが、第二次世界大戦が本格化した1940年から戦後の1946年まで敵国人としてインドの収容所に抑留された。戦後はマハーラーシュトラ州プーナに住み、後にヨーロッパに戻ってスイスチューリッヒで没した。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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