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ヴィルヘルム・フィーエトル : ミニ英和和英辞書
ヴィルヘルム・フィーエトル[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ヴィルヘルム・フィーエトル : ウィキペディア日本語版
ヴィルヘルム・フィーエトル[ちょうおん]
ヴィルヘルム・フィーエトル(、1850年12月25日 - 1918年9月22日)は、ドイツ言語教育者、音声学者外国語教育改革運動の中心人物。言語教育は音声を主とすべきであると主張した。また、そのために音声学の研究も行った。フィーエトルらの新しい教育法は直接教授法と呼ばれた。
== 生涯 ==
(主に外部リンクのウォーリック大学のページによる)
フィーエトルはプロテスタント牧師の子としてナッサウに生まれ、はじめは神学を学んだ。1872年から翌年にかけてイギリスで短期間ドイツ語を教えたあと、1874年にマールブルク大学に入学して英語を学んだ。1876年からデュッセルドルフで英語とフランス語を教えつつ、言語教育に関する論文を書いた。当時の言語教育は古典文学の読解や、例文の翻訳による方法(:de:Grammatik-Übersetzungsmethode)が主だったが、フィーエトルは文字ではなく口による話し言葉の教育の重要性を訴えた。
1882年に「Quousque Tandem」〔キケローによるカティリナ弾劾演説の最初の言葉より。〕の偽名で言語教育の刷新を訴えた小冊子『』は従来の教育を激しい言葉で批判して、大きな反響を呼んだ。フィーエトルの教育方法は後にと呼ばれるようになった。
イギリスのヘンリー・スウィート、フランスのポール・パシー、デンマークのオットー・イェスペルセンらがフィーエトルの主張に賛同した。
当時のドイツは比較言語学の最盛期であり、言語学は歴史的研究を主にしていた。現代の口語を中心とするフィーエトルはその正反対の方向へ進むものだった〔Collins & Mees (1998) p.475〕。
1884年にマールブルク大学の英語文献学の教授になった。同年出版した音声学の概説書『』は学問的にも優れた著作で、多くの版を重ねた。ドイツ語の発音をまとめた実用的な『』も1925年までに11版を重ねた。
1886年にパシーが新しい言語教育のための「Phonetic Teachers' Association」(後に国際音声学会に発展)を作ると、初期から参加し、1888年にはパシーにかわって会長になった。1917年までその職にあった。
同年、「Phonetische Studien」という音声学の雑誌を創刊した。1894年にはより有名な「Die neuen Sprachen」を発行した〔Colliin & Mees (1998) p.474〕。
フィーエトルは教育者育成のための夏季講座をマールブルク大学内に開いた。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヴィルヘルム・フィーエトル」の詳細全文を読む




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