|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。
サー・フレデリック・ウィリアム・ハーシェル(Sir Frederick William Herschel, 1738年11月15日 - 1822年8月25日)は、ドイツのハノーファー出身のイギリスの天文学者・音楽家・望遠鏡製作者。ドイツ語名はフリードリヒ・ヴィルヘルム・ヘルシェル(Friedrich Wilhelm Herschel)である。天王星の発見や赤外線放射の発見など、天文学における数多くの業績で知られる。 == 生涯 == フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヘルシェルはハノーファーの家の10人兄弟姉妹の4番目の子供として生まれた(うち4人は早世している)。1753年、父イザークと長兄ヤーコプが勤めていたハノーファー近衛連隊の楽団にオーボエ奏者として入団した。当時イギリスとハノーファー選帝侯国はジョージ2世の下で同君連合を組んでいた。1755年、彼の楽団はイギリスへの赴任を命じられた。ヘルシェルは短期間で英語を習得し、1757年にイギリスに渡って名前をフレデリック・ウィリアム・ハーシェルと名乗るようになった。 イギリスでのハーシェルは音楽教師として、また楽団長として成功を収めた。ハーシェルはヴァイオリンやオーボエ、後にはオルガンも演奏した。彼は24曲の交響曲や数多くの協奏曲・教会音楽などを作曲した。しかし今日では彼の曲の多くは忘れられている。ハーシェルはニューカッスルやリーズ、ハリファックスのオーケストラの団長を務めた後、バースでオクタゴン・チャペルのオルガン奏者に就任した。この地で彼は市民音楽会指揮者の職にも就いた。この頃に妹のカロライン・ハーシェルもイギリスに移り、彼と共に生活するようになった。 ハーシェルは音楽に携わるうちに次第に数学にも興味を抱くようになり、さらに天文学も学ぶようになった。1773年頃から本格的に天文学に携わり、自ら望遠鏡を製作し始め、天文学者のネヴィル・マスケリンと面識を得るようになった。ハーシェルは月を観測して月面の山の高さを測定したり、二重星のカタログの編纂などを行なった。 ハーシェルの人生の転機は1781年3月13日に訪れた。この日、彼はバースのニュー・キング・ストリート19番地にある自宅で天王星を発見した。この発見によって彼は一躍有名人となり、以後天文学の研究に専念するようになった。当時のイギリス王ジョージ3世を称えてこの新惑星に「ジョージの星」(''Georgium Sidus'') と命名したことで、彼の名声は一層高まった(実際にはこの名前は定着しなかった。特にフランスではこの惑星をイギリス王の名前で呼ぶことは敬遠されたため、'Uranus' という名称が定着する以前は 'Herschel' と呼ばれていた)。この年、ハーシェルはコプリ・メダルを受賞し、王立協会会員に推薦された。1782年にハーシェルはジョージ3世から国王付天文官 (The King's Astronomer) に任命され、彼と妹は1782年8月1日にバッキンガムシャー(現バークシャー)のダチェットに移住した。ここでも彼は望遠鏡製作者としての仕事を続け、数多くの望遠鏡を天文学者に販売した。 1783年にハーシェルはカロラインに1台の望遠鏡を与え、これをきっかけにして彼女も天文学上の発見(特に彗星の発見)をなすこととなった。カロラインは兄の助手として働き、彼が望遠鏡で観測を行なう際には記録係を務めた。 ダチェットの地は湿気が多い環境だったため、1785年6月にハーシェル兄妹はオールド・ウィンザーのクレイ・ホールに転居した。クレイ・ホール・ファームは彫刻家ペーター・シェーマーケルスによる胸像がウィンザー教区教会に置かれているトップハム・フートの父、サミュエル・フートが所有していた。トップハムの母はこのファームを兄弟のリチャード・トップハムに売却し、リチャードはシドニー・ブリュークラークに相続した。1786年4月3日にハーシェル達はウィンザー・ロードのスラウに移り住んだ。ハーシェルは以後の生涯をこの地で過ごし、彼の家はオブザバトリー・ハウス (''Observatory House'') の名で知られるようになった。1963年に高層オフィスビルを建設するためにこの家は取り壊され、現在はない。 1788年5月7日、ハーシェルはスラウのアプトンにあるセント・ローレンス教会で未亡人メアリー・ピットと結婚した。これ以来妹のカロラインは離れに住むようになったが、その後もハーシェルの助手を務めた。 ハーシェルはその生涯で400台以上の望遠鏡を製作した。その中でも最大で最も有名な望遠鏡は焦点距離40フィート(12m)、口径49 1/2 インチ (126cm) の反射望遠鏡である。1789年8月28日、この大望遠鏡を使っての初観測で彼は土星の新たな衛星エンケラドゥスを発見した。この発見から1ヶ月も経たないうちに彼はもう一つの新衛星ミマスも発見した。しかしこの40フィート望遠鏡は非常に扱いにくかったため、ハーシェルの観測の多くはより小さな焦点距離20フィート (6.1m) の望遠鏡を使って行なわれた。ハーシェルは望遠鏡の口径の一部を覆い隠すことによって非常に高い角分解能が得られることを発見した。この原理は今日の天文学における干渉法の基礎をなすものである。なお、40フィート望遠鏡は老朽化により1839年に息子ジョンにより解体され、現在は反射鏡のみが保存されている。 1792年3月7日、ハーシェルとメアリーの間に息子ジョンが生まれた。1816年には摂政皇太子(後のジョージ4世)からナイトに叙せられた。彼は1820年にロンドン天文学会を共同で設立した。この学会は1830年に勅許を得て王立天文学会となった。 1822年8月25日、ハーシェルはスラウのオブザバトリー・ハウスで没し、アプトンのセント・ローレンス教会近くに埋葬された。 息子のジョン・ハーシェルも天文学者として名を成し、写真の研究でも名を残した。またウィリアムの弟のアレクサンダーもイギリスに移住し、カロラインとウィリアムの家の近くに住んでいた。 ハーシェルが数多くの望遠鏡を製作し、また天王星を発見したバースの家は現在ではウィリアム・ハーシェル博物館となっている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ウィリアム・ハーシェル」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|