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フリデリク・ヴィルヘルム・パヴェウ・ミコワイ・ラジヴィウ(Fryderyk Wilhelm Paweł Mikołaj Radziwiłł)またはフリードリヒ・ヴィルヘルム・パウル・ニコラウス・フォン・ラジヴィウ(Friedrich Wilhelm Paul Nikolaus ''Fürst'' von Radziwill, 1797年3月19日 ベルリン - 1870年8月5日 ベルリン)は、プロイセン王国のポーランド系貴族、軍人。歩兵大将(General der Infanterie)。侯爵(Fürst)/公爵(książę)。ニャスヴィシュの第13代オルディナト。 プロイセン領ポーゼン大公国の総督を務めたアントニ・ヘンリク・ラジヴィウ侯と、その妻でプロイセン王子フェルディナントの娘であるルイーゼの間の長男として生まれた。1848年、フリードリヒ・フォン・ヴランゲル元帥の麾下で第1次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争に参加し、司令部に務めた。1860年に工兵軍団長および要塞視察官となったが、1866年に引退した。1858年よりマクデブルク市の名誉市民となった。死後の1889年、プロイセン軍第1工兵大隊(Pionier-Bataillon „Fürst Radziwill“ (Ostpreußisches) Nr. 1)がヴィルヘルムを顕彰すべく「ラジヴィウ侯」を通称に冠している。 1825年1月23日、ポーゼン(現在のポーランド領ヴィエルコポルスカ県ポズナン)において同族のヘレナ・ラジヴィウヴナ侯女(1805年 - 1827年)と結婚したがすぐ死別し、1832年5月4日にテプリッツ(現在のチェコ領ウースチー州テプリツェ)においてクラリー=アルトリンゲン伯爵夫人マティルデ(1806年 - 1896年)と再婚した。最初の妻との間に娘1人を、2番目の妻との間に長男アントニ・ヴィルヘルム(1833年 - 1904年)をはじめ9人の子女をもうけた。 == 参考文献 == * * * (Familienartikel) 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヴィルヘルム・ラジヴィウ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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