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ヴィルヘルム・ヴァイトリング : ミニ英和和英辞書
ヴィルヘルム・ヴァイトリング
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ヴィルヘルム・ヴァイトリング : ウィキペディア日本語版
ヴィルヘルム・ヴァイトリング

ヴィルヘルム・ヴァイトリング(Wilhelm Weitling, 1808年10月5日 - 1871年1月24日)は、ドイツ人革命家19世紀前半ヨーロッパ諸都市でドイツ手工業職人の結社運動を指導し、後半ニューヨークで移民労働者の社会建設を唱えた。
== 生涯 ==
ヴァイトリングは、ナポレオン軍占領期のマクデブルクで、フランス人駐留兵を父に、貧しい女性労働者を母に生まれた(ヴァイトリングは母方の姓で、両親は結婚していなかった)。父は1812年モスクワ遠征に出たまま帰らず、1822年、若くして婦人服仕立の徒弟となる。当時ドイツの手工業職人は、昔からの修業上の慣わしとして、またよりよい労働条件を求めてヨーロッパ諸都市を渡り歩いた。ヴァイトリングも1826年1827年頃、腕一本で飯を食う遍歴職人となって故郷をあとにした。1830年代初にはライプツィヒの仕立作業場で働き、その後ウィーンへ、さらに1835年にはパリへと渡り歩く。彼は、もともと革命騒ぎの多い都市パリで、亡命ドイツ人の共和主義的な秘密結社追放者同盟に加入。その後1836年4月一度ウィーンへ行き、1837年9月ふたたびパリへ戻って、今度はドイツ手工業職人中心の新結社・正義者同盟に加入する。
ヴァイトリングは18世紀フランス啓蒙思想や19世紀フランス社会主義思想を独学で習得していたが、その成果を処女作『人類、そのあるがままの姿とあるべき姿』(''Die Menschheit, wie sie ist und wie sie sein sollte'', Paris、1837年)に盛り込んだ。この著作中では、機械化の促進による労働の軽減および時短による自由時間の創出を要求し、農民職人が同時に芸術家や思索家である共同社会「財産共同体(''Guetergemeinschaft'')」の思想が打ち出されている。
ヴァイトリングは、正義者同盟内部では、指導部のカール・シャッパー派としばしば対立していた。
1839年5月パリでブランキ四季協会季節協会)が暴動事件を画策する。この暴動と正義者同盟のとの関係は不透明だが、この夜にシャッパーが逮捕され、ロンドンに追放される。これに伴い、同盟内部は組織的に打撃を被り、混乱状態に陥る。ヴァイトリングはこの時点でパリを離れていたため逮捕を免れた。その後、彼は正義者同盟の再建を企図しスイスジュネーヴへ移り、雑誌『ドイツ青年の救いを叫ぶ声』を創刊。主著『調和と自由の保証』を刊行する。バクーニンはこの頃、スイスにおり、共産主義者時代の彼の「見えざる独裁」理論にヴァイトリングの三月革命前の独裁理論は大きな影響を及ぼした。また、若きマルクスに対しても共産主義思想形成上で影響を与えたことが推測される。
1843年、ヴァイトリングは『貧しき罪人の福音』を完成させるが、その中ではトーマス・ミュンツァー的な千年王国論・メシア共産主義を説き、実践面では社会的匪族(Sozialbandit)による徹底的な所有権攻撃を提起した。ヴァイトリングはこの『福音』の起草のために、チューリヒ州警察に逮捕される。同年秋にはスイスからプロイセンへ護送され、翌1844年プロイセンからも追放され、同年8月ロンドンへ着く。
ヴァイトリングと彼の派は正義者同盟ロンドン本部のシャッパーと「革命か啓蒙か」の路線をめぐり討論を闘わせ、しばしば対立した。彼はまた1846年3月にロンドンからブリュッセルへ渡り、マルクス派とも連携を試みるが、マルクスとも革命論をめぐって対立する。いずれの論争も決裂に終わり、ヴァイトリングは1846年末、大西洋を渡ってニューヨークに上陸。解放同盟(''Befreiungsbund'')を設立することになる。
ヴァイトリングは、1848年革命勃発に際して一度ドイツへ戻るが、1850年にはニューヨークで移住ドイツ人労働者に向けて宣伝機関誌『労働者共和国(Republik der Arbeiter)』を発行し、1851年アイオワ州クレイトンで共産主義的なコロニー「コムニア」(1847年設立)の運営に参加、さらには1852年労働者同盟(Arbeiterbund)を結成する。こうしてヴァイトリングは、アメリカでも精力的に社会改革・労働運動を継続していくが、その際ニューヨークに来てからのヴァイトリングの思想と行動には、フランスの社会主義者・アナキストのピエール・ジョゼフ・プルードンの影響が俄然強烈に印象づけられる。それは、交換銀行と協同企業、一言で表現すれば労働者アソシアシオンの標榜である。労働者協同企業と交換銀行の連携によるアメリカ大陸横断鉄道の建設はそのハイライトである。しかし、アメリカ社会の激しい資本主義的転変の渦中で、労働者協同社会を展望するというヴァイトリングの構想は行き詰まり、1860年代には政治的・社会的活動から身をひく。1871年1月インターナショナルニューヨーク支部の親睦会に出席した直後、死去した。彼の死後、妻と6人の子供が残された。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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