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ヴィルヘルム・ヴント : ミニ英和和英辞書
ヴィルヘルム・ヴント
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ヴィルヘルム・ヴント : ウィキペディア日本語版
ヴィルヘルム・ヴント

ヴィルヘルム・ヴント(Wilhelm Max Wundt、1832年8月16日 - 1920年8月31日)は、ドイツ生理学者哲学者心理学者実験心理学の父と称される。哲学者のマックス・ヴント(ドイツ語)は息子である。
== 生涯・人物 ==
バーデン地方およびプファルツ地方に近接するドイツ中南部のマンハイムネッカラウに牧師の子として生まれる。12歳の時、テュービンゲン大学に入学。高校時代に落第して転校したくらい高校時代まで学校嫌い・勉強が嫌いであったが、〔図解雑学心理学入門16頁〕ハイデルベルク大学医学部に入学してからは猛勉強をする。1857年に同大学を卒業。1858年から5年間、ヘルムホルツの助手をつとめる。1862年から私講師として「自然科学から見た心理学」「生理学的心理学」といったタイトルの講義を担当する。1873年『生理学的心理学綱要』の前半を出版する。翌1874年、スイスチューリッヒ大学の哲学の正教授となる。さらに翌1875年ライプツィヒ大学の哲学教授として招かれ、その地に腰をすえる。
それまでの哲学的な心理学とは異なる実証的な心理学を構想し、実験心理学最初の書である「感覚知覚説貢献」(1858-1862)を著し、ライプツィヒ大学の哲学教授を務めていた1879年には、世界でももっとも初期の実験心理学の研究室を運用したと言われており、心理学史の多くではこの時をもって、" 新しい学問分野として心理学が成立 " したとされている。〔正確には1879年に実験室が建設されたわけではなく、それ以前からヴントが私的に使っていた実験室が、1879年の秋からのカリキュラム編成の変更によって、正式に大学の授業の場として使われはじめた、ということであったらしい。(Bringmann,1980, ''The establishment of Wundt's laboratory: An archival and documentary study.'') アカデミーの世界に正式に組み込まれた、ということである。いずれにせよその意義は変わらない。〕〔ちなみに、本人は自身が心理学者であると思って仕事をしていた訳ではなかった。後世の人が実験心理学の祖として解釈した。〕〔1875年には、アメリカで初の心理学の講義を開始し、研究室を設けた:「訳者あとがき」 W. ジェームズ『心理学〈上〉』今田寛訳、岩波文庫。1992年。ISBN 400336404X。334-335ページ。ドイツのヴントが研究室を用意したのは、この4年後の1879年である。日本はドイツ医学の影響が強く、ヴントの紹介が先であった。〕
その実験室にはヨーロッパアメリカ日本から多くの研究者が集まることになった。1881年には『哲学研究』という名の冊子を発刊し、これは後に『心理学研究』と改称され継続。ヴントの心理学研究室での成果を中心とした諸論文を掲載し、心理学の発展に寄与した。
ヴントは実験室のあるライプツィヒ以外の地に移住することはなく、その地にて88歳で死去した。生涯に書いた著作のページ数の総計は5万ページ以上だと言われている。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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