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ヴィードゥビチ修道院()は、ウクライナの首都キエフにある正教会の男子修道院。11世紀後半に建立された。ウクライナ正教会・キエフ総主教庁に属している。キエフの名所の一つ。正式名は聖ミハイール・ヴィードゥビチ修道院。 ==概要== ヴィードゥビチ修道院は、1070年代にキエフの郊外ヴィードゥビチにおいてキエフ大公ヤロスラーウ賢公の子ヴセヴォロドが創立した修道院である。当初は大公の離宮と木製の教会があったが、以後に石造りのミハイール聖堂が建立された〔「ヴィードゥビチ修道院」『キエフ大辞典』 〕。 12世紀以降、ヴィードゥビチ修道院はルーシの歴史を編纂する重要な施設であった。ここでは修道院長スィリヴェーストルの下で『ルーシ年代記』と『キエフ年代記』の編集が行われた。修道院はルーシの大公の保護を受けながら、ズヴィリネツィ、リービジ、ナヴォドナ、オソコルキーとドニプロ川の渡し場などを庄園を所有しており、ルーシにおける最も裕福な修道院であった。 1240年にヴィードゥビチ修道院はモンゴル帝国の軍勢による打撃を受けたものの、存続した。17世紀初頭にウクライナ・カトリック教会の修道院となったが、1637年に正教会のキエフ府主教ペトロー・モヒーラに返還された。モヒーラはミハイール聖堂を修復し、修道院をキエフのソフィア大聖堂に所属させた。 17世紀後半にヴィードゥビチ修道院はウクライナ・コサックの一族ミクラシェーウシキー家支援によって再興された。現存する修道院の伽藍は17世紀末期から18世紀初頭にかけて形成されたコサック好みのウクライナ・バロック様式の伽藍である。 1786年にロシア帝国はコサック国家を併合すると、ロシア政府の命によりヴィードゥビチ修道院の私有地が没収され、修道院は第三級の修道院として位置づけられた。その後、19世紀に第二級の修道院、20世紀初頭に第一級の修道院となった。ロシア革命の直前にヴィードゥビチ修道院では宗教施設のほかに、病院や孤児院などがあった。 1921年にヴィードゥビチ修道院は共産系政権によって廃止され、1932年に部分的に破壊された。1945年にウクライナ社会主義共和国学士院のキエフ植物園に委託された。 1967年から1982年にかけてヴィードゥビチ修道院では大規模の修復が行われた。ウクライナ独立後に修道院はウクライナ正教会・キエフ総主教庁の修道院となった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヴィードゥビチ修道院」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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