翻訳と辞書
Words near each other
・ ヴィーノ・デュプレ
・ ヴィーヒクル
・ ヴィーブ
・ ヴィープリ
・ ヴィープリ (小惑星)
・ ヴィープリ・サヴォンリンナ州
・ ヴィープリ及びサヴォンリンナ州
・ ヴィープリ州
・ ヴィープリ湾
・ ヴィープリ湾上陸作戦
ヴィーボルク
・ ヴィーボルグ
・ ヴィーボ・ヴァレンツィア
・ ヴィーマック
・ ヴィーラ
・ ヴィーラント
・ ヴィーラント・クイケン
・ ヴィーラント・ワグナー
・ ヴィーラント・ワーグナー
・ ヴィーラント・ヴァーグナー


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

ヴィーボルク : ミニ英和和英辞書
ヴィーボルク[ちょうおん]
=====================================
〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ヴィーボルク ( リダイレクト:ヴィボルグ ) : ウィキペディア日本語版
ヴィボルグ[ちょうおん]

ヴィボルグロシア語:, ラテン文字転記:Vyborg)は、ロシア連邦レニングラード州都市である。ロシア語での発音はヴィーボルクに近く、また他にヴィボルクヴイボルクなどの表記も用いられる。かつてはスウェーデン領やフィンランド領であった都市であり、ヴィープリフィンランド語:)、ヴィボリスウェーデン語:)の名でも知られる。ちなみにドイツ語では(ヴィボルク)と表記される。
フィンランド湾に面し、カレリア地峡の北西端に位置する。サンクトペテルブルクから北西に130kmの距離にあり、38km北にフィンランドとロシアの国境がある。2002年時点での人口は79,224人。
== 歴史 ==
この街の地域はヴオクサ川の西の支流上にあり、貿易の中心地であった。フィン人の一派カレリア人が住んでおり、彼らはノヴゴロドやスウェーデンの支配下に入った。
1293年、いわゆる「第三次スウェーデン十字軍」の際に、ヴィボルグ城(en)が元帥トルケル・クヌートソン(en)によって建てられた。この城を巡ってスウェーデンとノヴゴロドは数十年にわたって争った。1323年の条約(en)によってスウェーデンの一部となった。ロシア・スウェーデン戦争(1495–1497年)の間、街は攻囲に抵抗した。
1403年、スウェーデン王エーリク・ア・ポンメルンにより貿易特権を与えられた。1710年の大北方戦争ピョートル1世に占領されるまで、スウェーデン領であった。1721年ニスタット条約によってロシア領となった。1790年第一次ロシア・スウェーデン戦争では、ヴィボルグ湾の戦い(en)と呼ばれる大規模な海戦が起こった。
1809年にフィンランドがロシアに割譲されると、アレクサンドル1世1812年にこの街を含む地域をフィンランド大公国に編入した。19世紀の間、フィンランド東部における行政と貿易の中心地として発展した。1856年に開通したサイマー運河はフィンランド東部と海を結ぶ道となり、地域経済に貢献した。工業は育たなかったが、その位置のためにカレリア地峡、ラドガ・カレリア、南東フィンランドでの工業製品の運輸の中心地となった。
1905年のロシア第一次革命によって、皇帝によりドゥーマ(国会)の開催が約束され、1906年4月末よりペテルブルクでドゥーマ(国会)が開催された(第一国会)。しかし、政府との対立から7月上旬に解散させられると、議員たちはヴィボルグのホテルに集結し、167人によるヴィボルグ・アピールを示した。
1917年のロシア革命ののち、フィンランドは独立を宣言した。フィンランド内戦で街は赤衛軍が掌握したが、1918年4月29日に白衛軍に占領された。戦間期には街はヴィープリと呼ばれ、フィンランド第2の都市だった。人口は8万人で、少数民族としてロシア人、ドイツ人、スウェーデン人がいた。この時期にアルヴァ・アールトによる近代建築の傑作、ヴィープリ図書館(en)が建てられた。
冬戦争では、7万人の人々がヴィープリからフィンランド西部に避難した。住民がいなくなったヴィープリとカレリア地峡全体は、モスクワ講和条約によってソ連に割譲され、1940年カレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国に編入された。ヴィープリには1万人程度のフィン人が残っていたが、彼らも引渡しの前に立ち退いた。
旧フィンランド領のカレリアからの避難民は政治的な勢力となり、その要望はフィンランドがドイツの支援を受けてソ連と戦う動機となった。1941年8月29日、ヴィープリはフィンランド軍によって奪回され、フィンランド政府はモスクワ講和条約で失った地域を併合した。その年のうちに9千7百人が帰還し、1942年には1万6千人となった。2万8千人まで戻った住民は、ノルマンディー上陸作戦と平行して行われた赤軍大規模な攻勢の前に、再び避難民となった。1944年6月20日に街は陥落したが、タリ=イハンタラの戦いでフィンランド軍はソ連の攻撃を止めた。
1944年9月19日のモスクワ休戦条約によって、国境線はモスクワ講和条約のものに戻り、パリ条約でフィンランドはヴィープリを放棄した。ヴィープリはレニングラード州に編入されてヴィボルグと名前を変え、ソ連全土からの移住者が集まった。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「ヴィボルグ」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Vyborg 」があります。




スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.