|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。 ・ 十 : [とお] 1. (num) 10 2. ten ・ 十字 : [じゅうじ] 1. (adj-na,n) cross 2. crossed 3. cruciform ・ 十字軍 : [じゅうじぐん] 【名詞】 1. Crusades 2. Crusaders ・ 字 : [じ, あざな] 【名詞】 1. character 2. hand-writing ・ 軍 : [ぐん] 1. (n,n-suf) army 2. force 3. troops
ヴェンド十字軍(独:Wendenkreuzzug)とは、1147年に提唱され、ポラーブ語諸族(en)あるいはヴェンド人に対して行なわれた北方十字軍の1つ。またこれは神聖ローマ帝国のドイツ王国(en)が率いた第2回十字軍の一環でもあった。 12世紀始めまで、ブレーメンとマクデブルクのドイツ大司教権力は平和的な手段により近隣の異教徒西スラヴ人にキリスト教に改宗するよう求めていた。しかし聖地へ向けた第2回十字軍の準備が行なわれる間に、対スラヴ人の十字軍を支持する教皇勅書が発行された。 1147年6月、スラヴ人の族長ニクロト(en)は機先を制してヴァグリア(Wagria)を侵略した。十字軍は1147年の晩夏に進軍を開始しドービン(en,de)のスラヴ人を表向き洗礼させるのに成功したが、デミン(en)からは撃退された。目標を変えた十字軍はキリスト教化済みのシュチェチンへ進軍したが、これは到着と同時に解散した。 主にザクセン人とデンマーク人で構成された十字軍は異教徒のスラヴ人に献納を強要し、ヴァグリアとポラビアに対するドイツの支配権を確認したものの、住人の大半をすぐに改宗させることは出来なかった。 == 背景 == 10世紀の間オットー朝(en)は神聖ローマ帝国が西スラヴすなわちヴェンドの土地へ向け東へと拡大するのを支持していた。これらはドイツ王ハインリヒ1世と神聖ローマ皇帝オットー1世の提唱によるもので、オットー1世はソルブ人の領地内にあるドイツ占領地を守る為にブルクヴァルト(en)を採用した。オットー1世の副官、辺境伯ゲーロ1世(en)とヘルマン・ビルング(en)はそれぞれ東と北へ進出し、征服したスラヴから献納を要求した。教会勢力はマイセン、ブランデンブルク、ハーフェルベルク(de)、オルデンブルク・イン・ホルシュタイン(en、以下オルデンブルク)に司教区を置き領地を管理した。しかし987年にスラヴ人が大規模な反乱を起こし、ドイツの領地は以前に逆戻りした。ブルクヴァルトがザクセン人にマイセンの支配権の保有を認めたことで影響力は残したものの、ブランデンブルクとハーフェルベルクを失った。エルベ川が帝国の統制出来る東の境界となった。 12世紀始めまで、ブレーメンとマクデブルクの大司教は平和的な手段で異教徒のスラヴ人をキリスト教化した。有名な伝道者にウィツェリン(de)、クサンテンのノルベルト(en)、バンベルクのオットー(de)がいた。神聖ローマ帝国ザリエル朝(en)の支援無しで世俗のザクセン君主たちはスラヴ人の領地を狙っていたが、軍事力を行使するのに手詰まりな状態である事に気付いた。ホルシュタインのキリスト教徒(特にザクセン人)と異教徒が互いにリーメス・サクソニア(de)を越え襲撃し合ったが主な目的は献納だった。 1140年ないし1143年から、ホルシュタインの貴族は異教徒ヴァグリ族(en)の定住地ヴァグリアへ進出した。ホルシュタイン伯アドルフ2世(en)とハインリヒ・フォン・バドヴィーデ(en)は、後にリューベックとラーツェブルク(en)へ発展するポラーブ人の居住地の支配権を握った。アドルフ2世はオボトリート族同盟の盟主ニクロトとの間で平和を模索する一方、ヴァグリアのドイツ植民化とキリスト布教を奨励した。〔Barraclough, p. 263〕 1144年のエデッサ伯国陥落はキリスト教世界に打撃を与え、教皇エウゲニウス3世とクレルヴォーのベルナルドゥスがエルサレムの十字軍国家の拡充目的とした第2回十字軍を唱導した。多くの南ドイツ人が中東に向けた十字軍に志願したが、北ドイツ人であるザクセン人はこれに気乗りせず、1147年3月13日にフランクフルトで開かれた帝国議会で、ベルナドゥスにスラヴ人に対する軍事行動を起こしたいと言明した。ザクセン人の作戦に賛成した教皇エウゲニウス3世は「スラブ人に対する十字軍と聖地拡充の十字軍の双方で得られる精神的な救済に違いは無い」という教皇勅書を発行したが、これは『3月13日の完全なる神慮』(Divina Dispensatione)として知られている。スラヴ人に対する十字軍には主にデンマーク人、ザクセン人、ポーランド人が志願したが、中にはボヘミア人もいた。〔Davies, p. 362〕ドイツの諸侯はこの十字軍には参加せず、アスカーニエン家(en)のバレンシュテット伯アルブレヒト熊公やヴェッティン家(en)のマイセン辺境伯コンラート1世、シャウエンブルク諸侯(en)といったザクセン諸侯が主導し、〔Herrmann, p. 328〕教皇使節(en)ハーフェルベルクのアンセルムス(en)が命令を総括することになった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヴェンド十字軍」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|