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ヴォルデマール・バルギール(Woldemar Bargiel, 1828年10月3日 - 1897年2月23日)はドイツ・ロマン派音楽の作曲家・音楽教育者。クララ・シューマンの異父弟。 == 経歴 == 声楽教師およびピアノ教師であった父アドルフ・バルギール(1783年 - 1841年)とピアニストで声楽家だった母マリアンネ(またはマリアーネ〔Schytte, p. 49〕)・トロムリッツ(1797年 - 1872年)のもとでベルリンに生まれた。母方の祖父ヨハン・ゲオルク・トロムリッツ(1725年 - 1805年)はフルートのヴィルトゥオーゾであった。マリアンネは前夫フリードリヒ・ヴィーク(1785年 - 1873年)との間に、のちに世界的なピアニストとなった娘クララを儲けたのち離婚し、アドルフと再婚していた。クララとは父親違いの姉弟ではあったが生涯にわたって温かな関係が続き、最初の音楽の手解きをクララから受けた後、音楽理論家のジークフリート・デーンに師事した。クララはヴォルデマールをロベルト・シューマンやフェリックス・メンデルスゾーンに引き合わせてもいる。 バルギールは変声期を迎えるまでエドゥアルト・グレルやメンデルスゾーンが指揮する宮廷聖歌隊に参加した。変声後はシューマンの助言やメンデルスゾーンの推薦状を得て、16歳でライプツィヒ音楽院に進学し、1849年までの間、ピアノをイグナーツ・モシェレスに、音楽理論をモーリッツ・ハウプトマンに、作曲法をユリウス・リーツとニルス・ゲーゼに師事した〔Stowell, Robin (2003). . Cambridge University Press. page 346. ISBN 0521000424.〕。1850年に、個人教師として働くためにベルリンに里帰りし、ひとまずベルリン・ジングアカデミーの職員を務め、1859年以降はケルン音楽院の教員に採用された。この頃に、シューマン夫妻の尽力で、《ピアノ三重奏曲 第1番》を含む初期作品を出版した。1864年にロッテルダムの音楽学校 Maatschappij tot bevordering der Toonkunst の院長を務め、後に妻となるヘルミーネ・トゥールス (Hermine Tours) と同地で出会った。ヘルミーネの兄弟ベルトルト (Berthold Tours) も作曲家であった。 1874年に、ヨーゼフ・ヨアヒムに促されてベルリンに帰り、ヨアヒムが創立したベルリン高等音楽学校において作曲科教授として教鞭を執った。1897年に没するまで同校に在職し、当時最も一目置かれた教師の一人として、エルンスト・ルドルフやレオ・ブレッヒ、パウル・ユオン、カミッロ・シューマン、ペーター・ラーベ、ヴァルデマール・フォン・バウスネルン、フランツ・ベルシェ、チャールズ・マーティン・レフラー、レオポルト・ゴドフスキーらを育てた。教育活動の傍ら、ヨハネス・ブラームスと協力して、シューマンやフレデリック・ショパンの作品の校訂を手がけた。 2007年9月に、それまで個人蔵となっていたバルギールのさまざまな遺品を国立ベルリン図書館が購入した。その中には、1,500点の書簡や、証書、資料、旅券、写真、プログラムの載ったビラ、新聞の批評欄の切り抜き、作曲の素材などが含まれている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヴォルデマール・バルギール」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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