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ヴォルフガンク・エルンスト・パウリ : ミニ英和和英辞書
ヴォルフガンク・エルンスト・パウリ
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。


ヴォルフガンク・エルンスト・パウリ ( リダイレクト:ヴォルフガング・パウリ ) : ウィキペディア日本語版
ヴォルフガング・パウリ



ヴォルフガング・エルンスト・パウリWolfgang Ernst Pauli, 1900年4月25日 - 1958年12月15日)はオーストリア生まれのスイスの物理学者。スピンの理論や、現代化学の基礎となっているパウリの排他律の発見などの業績で知られる。
アインシュタインの推薦により、1945年に「1925年に行われた排他律、またはパウリの原理と呼ばれる新たな自然法則の発見を通じた重要な貢献」に対してノーベル物理学賞を受賞した。
== 生涯 ==
パウリはウィーンでヴォルフガング・ヨセフ・パウリとベルタ・カミラ・シュッツの間に生まれた。エルンストという彼のミドルネームは名付け親の物理学者エルンスト・マッハに敬意を表して付けられた。
パウリはウィーンのドブリンガー・ギムナジウムに入学し、1918年に優秀な成績で卒業した。卒業わずか2ヵ月後に18歳の彼は、アインシュタイン一般相対性理論に関する人生最初の論文を発表した。彼はミュンヘン大学に入学し、アルノルト・ゾンマーフェルトの下で研究を行なった。1921年7月に彼は水素分子イオン量子論に関する学位論文で博士号を取得した。
ゾンマーフェルトはパウリに、ドイツ語の百科事典 ''Encyklopaedie der mathematischen Wissenschaften''(『数理科学百科事典』)の相対性理論の記事を執筆するよう依頼した。パウリは博士号取得の2ヵ月後に、237ページにも及ぶ記事を完成させた。
この記事はアインシュタインに称賛されてモノグラフとして出版され、今日においても、この分野の標準的参考書となっている。
パウリはゲッティンゲン大学マックス・ボルンの助手として1年間過ごし、翌年にはコペンハーゲン大学の理論物理学研究所(後のニールス・ボーア研究所)に滞在した。その後1923年から1928年まで、彼はハンブルク大学の講師を務めた。この時期のパウリの研究は量子力学の現代的理論の構築に寄与した。特に彼は、排他律や非相対論的スピン理論の定式化を行なった。
1929年5月、パウリはローマ・カトリック教会を脱退し、12月にケーテ・マルガレーテ・デプナーと結婚した。この結婚は長く続かず、1930年に離婚している。
離婚後間もない1931年初め、ニュートリノの仮説を提唱する直前に、パウリは深刻な精神的不調に悩まされた。
彼は精神科医・心理学者で、パウリと同じくチューリッヒ近郊に住んでいたカール・グスタフ・ユングの診察を受けた。
パウリはすぐに自分の「元型夢」の解釈を始めるようになり、難解な心理学者ユングの最高の生徒となった。
間もなく彼は、ユング理論の認識論について科学的な批評を行なうようになり、ユングの思想、特にシンクロニシティの概念についての説明を与えた。
これらについて二人が行なった議論はパウリ=ユング書簡として記録されており、''Atom and Archetype''(『原子と元型』)というタイトルで出版されている。
1928年、パウリはスイスのチューリッヒ連邦工科大学の理論物理学の教授に任命された。
1931年にはミシガン大学の客員教授として渡米し、1935年にはプリンストン高等研究所に滞在した。
1934年に彼はフランカ・バートラムと再婚した。
この結婚生活は生涯続いたが、彼らの間に子供は生まれなかった。
1938年ドイツによるオーストリア併合によってパウリはドイツ市民となったが、このことは翌1939年第二次世界大戦勃発とともに、ユダヤ系であった彼の身を危うくすることとなった。
パウリは1940年にアメリカへ移住し、プリンストン大学の理論物理学の教授となった。
戦争が終わった1946年に彼はアメリカ合衆国に帰化したが、
その後チューリッヒに戻り、その後の生涯の大半をここで過ごした。
1958年膵臓癌を発病した。
パウリの最後の助手を務めたチャールズ・エンツがチューリッヒのロートクロイツ病院に入院していたパウリを見舞った時、パウリは彼に「部屋の番号を見たかね?」と尋ねた。
彼の病室の番号は 137 だった。
彼は生涯を通じて、微細構造定数が 1/137 に近い値を持つのは何故か、という疑問を考え続けていた。
1958年12月15日、パウリはこの病室で没した。享年58歳。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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