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ヴォー・チ・コン : ミニ英和和英辞書
ヴォー・チ・コン[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

ヴォー・チ・コン : ウィキペディア日本語版
ヴォー・チ・コン[ちょうおん]

ヴォー・チ・コン(、漢字:武志公、1912年8月7日Saigon online: Mừng đồng chí Võ Chí Công 95 tuổi 〕〔Google Books: Vietnam under Communism, 1975-1982 By Van Canh Nguyen, Earle Cooper 〕〔The leadership of the PRG, the NFLSV and their affiliated organization, 1973 (PDF) 〕 - 2011年9月8日Former State leader passes away Viethnam Plus 2011-9-8〕)は、ベトナム政治家ベトナム戦争時は南ベトナムの共産党指導者として活動し、ベトナム社会主義共和国建国後、副首相や第2代国家評議会議長国家元首に相当)などの要職を務めた。
== 経歴 ==
クアンナム省に生まれる。コンの政治活動は、1930年に初期・反フランス民族主義運動家であるファン・ボイ・チャウファン・チュー・チンに出会ったことに始まる。1935年インドシナ共産党に入党。第二次世界大戦中はフランスヴィシー政権に対する抵抗運動を行い、1942年に逮捕された。懲役25年の判決を受け、バンメトート刑務所に収監されたが、1945年3月に解放された。1945年8月の革命において、ベトナム中部のクアンナム省ダナンの蜂起を指導。1946年、第93連隊政治委員および第5軍区執行部副委員長に任命。1950年、第5連区委員。1952年、クアンナム政治委員会書記。1955年3月、第5戦区副書記〔木村(2006年)、118ページ〕。
1958年末、第5戦区書記に就任。1960年9月、ベトナム労働党(後の共産党)第3回党大会において非公然党中央委員として秘密裏に選出〔坂村(2001年)、58ページ。〕〔第3期党中央執行委員会(1960-1976年) 〕。同年12月、南ベトナム民族解放戦線の創立メンバーとなり、同中央委員会幹部会副議長に就任。1962年1月1日、解放戦線の中核となる「南ベトナム人民革命党」〔人民革命党は、ベトナム労働党の南での分身、カモフラージュ政党であった。〕が創設されると党中央委員会議長に就任〔友田(1981年)、63-64・308ページ〕。また、ベトナム労働党南部中央局COSVN)副書記を兼ねるなど、南ベトナムにおける党組織の重要人物であった。
ベトナム社会主義共和国建国後の1976年7月、ファム・ヴァン・ドン内閣の副首相に就任し、水産大臣(1976年 - 1977年2月)を兼任〔第6期国会期政府(1976-1981年) 〕。同年12月、ベトナム共産党第4回党大会において政治局員に選出され、党内序列第13位となる〔木村(1996年)、62ページ〕〔第4期党中央執行委員会(1976-1982年) 〕。翌1977年から農業大臣(1977年7月 - 1979年)を兼任。1977年9月10日、南部農業改造中央委員会委員長に任命され、直接南部農業集団化運動の指揮を取ることになった〔木村(2004年)、128ページ〕。1982年3月、第5回党大会において、政治局員兼書記局員に選出。政治局第7位、書記局第3位の地位に昇進〔木村(2004年)、151ページ〕〔第5期党中央執行委員会(1982-1986年) 〕した。同年4月、副首相を退任〔第7期国会期政府(1981-1987年) 〕。
1986年6月、再び副首相に就任〔第7期国会期政府(1981-1987年) 〕。同年12月の第6回党大会において書記局を退任したが政治局員に再選出され、序列第3位に昇格〔第6期党中央執行委員会(1986-1991年) 〕。1987年6月18日、第8期国会第1回会議において国家評議会議長に選出。1989年6月、憲法修正委員会委員長を兼務し、新憲法(1992年憲法)の作成に尽力した〔木村(2004年)、140ページ〕〔憲法修正委員会およびコン委員長の活動については、五島文雄「ドイモイ下における国家機構の再編 ― 九二年憲法体制の形成過程を中心に」(三尾忠志編『ポスト冷戦のインドシナ』日本国際問題研究所、1993年、25-54ページ)参照。〕。
1991年6月の第7回党大会において政治局員を退任し、党中央委員会顧問に退いたが、7月の国会人事においては国家評議会議長に留任した。これは新憲法発布と、新たな国家元首が選出されるまでの暫定的措置であった〔白石(1993年)、211ページ〕。翌1992年、憲法改正によって国家評議会が廃止され、国家主席制が復活すると、同年9月22日、国家評議会議長を退任した。
1997年12月の第8期党中央委員会第4回総会において党中央委員会顧問を退任した。
2011年9月8日、重病のためホーチミン市の病院で死去〔ベトナムの元国家評議会議長 ボー・チ・コン氏死去 産経新聞 2011年9月9日閲覧〕。。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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