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ヴャチチ族(、、)とは、8世紀から13世紀にかけてオカ川の上流・中流域(現ロシア ・ モスクワ州、カルーガ州、オリョール州、スモレンスク州、トゥーラ州、ヴォロネジ州、リペツク州)に居住していた、東スラヴ民族の部族集団である〔Вятичи 〕〔Сенсационная находка археологов :NTV (ロシア)のニュース動画〕。また、(ru)(考古学的な文化の名称)はヴャチチ族によるものである〔Славяне на Дону 〕〔Этнический состав населения и погребальный обряд на территории Орловской области 〕。 ==地理== 1061年に没したアラブの著述家アブー・サイード・アブド・アリ=ハイ・イブン・アス=ザハーク・イブン・マフムード・ガルディジ(ru) の著述の中で、ヴャチチ族の移住した地域はヴァンティトと呼ばれている。なお、ヴァンティトという名称は、それより早い時期の、ハザール・カガン国(ru)のカガン(ru)・イオシフ(ru)による、後ウマイヤ朝のハスダイ・イブン・シャプルトへの書簡にも言及されている。 考古学的検証によれば、ヴャチチ族の居住領域は以下のとおりである。すなわち、南西の境界線はオカ川、デスナ川の分水嶺に沿っていた〔Гагин И. А.Социально-политические связи окских вятичей и волжских булгар В X—XI вв. 〕。なお、デスナ川上流の支流域や、オカ川の支流のジズドラ川、ウグラ川の流域(おおよそ、オカ川上流域からみて北 - 西の方角)では、ヴャチチ族の陵墓(クルガン)はクリヴィチ族のものと共存しており、ヴャチチ族・クリヴィチ族双方の、独自の形の髪飾り(ヴィソチノエ・コリツォ)が発見されている〔Седов В.В. Голядь // Iš baltų kultūros (Вильнюс: Diemedis, 2000), 75-84. 〕。西の境界線は、オカ川がモスクワ川と合流する地点までの、ウグラ川とオカ川によって形成された谷に沿っていた。南東に向かってはクリャージマ川とその支流のウチャ川(ru)との合流点へとヴャチチ族の居住領域は広がっていた。この東の境界線地域のリャザンでも、ヴャチチ族の髪飾りの分布が確認されている。このように、ヴャチチ族はオカ川の上流域(プロニャ川流域を含む)に分布していた。特にオカ川の上流域は、完全にヴャチチ族によって占められていた。また、ドン川上流域であるリペツク州においても、若干のヴャチチ族の遺跡が発見されている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヴャチチ族」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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