|
===================================== 〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。
ヴワディスワフ・オポルチク(ポーランド語:Władysław Opolczyk;ドイツ語:Władysław von Oppeln, 1332年頃 - 1401年5月8日)は、オポーレ公(在位:1356年 - 1401年、1396年以後は名目のみ)、ハンガリー宮中伯(副王:ナードル、在任:1367年 - 1372年)、ルブリニェツ(1368年 - 1401年)、ヴィエルニ(1370年 - 1392年)、ボレスワヴィエツ(1370年 - 1401年)、プシュチナ(1375年 - 1396年)、グウォグヴェク(1383年 - 1401年)、クルノフ(1385年 - 1392年)の支配者、ハールィチ・ヴォルィーニ総督(在位:1372年 - 1378年)、ポーランド宮中伯(在任:1378年)、ドブジン=クヤヴィ公(在位:1378年 - 1392年、ポーランド王の封臣として)。オポーレ公ボルコ2世の長男で、母はシフィドニツァ公ベルナルトの娘エルジュビェタ。 == 生涯 == === ハンガリーの副王 === ヴワディスワフの幼年期についてはよく分かっていない。若き公子は政治経験を積むために、1353年頃にハンガリーへ赴き、1356年に父が死ぬまで同国で過ごした。父が死ぬと2人の弟ボルコ3世、ヘンリクと共にオポーレ公国の共同統治者となったが、気の強いヴワディスワフはすぐに統治権を独占するようになり、弟達には小規模な分領を与えて追い出した。但し、2人はこれ以後も名目上はオポーレの共同統治者であり続けた。 ヴワディスワフの政治的キャリアは1360年代半ば、ハンガリー王ラヨシュ1世の宮廷において始まった。ヴワディスワフは既に1364年、ハンガリー代表の一員としてクラクフ会議に出席している。しかしヴワディスワフにとって最初の重要な使命は1366年、ハンガリー王とボヘミア王ヴァーツラフ4世(ヴェンツェル)との外交交渉において、ラヨシュ1世に有利な条件を獲得するというものだった。 1367年、ハンガリー・アンジュー王家に対する忠勤が評価され、ヴワディスワフはハンガリー政府において国王に次ぐ地位である宮中伯(ナードル、副王とも)の地位を得た。宮中伯は第一義的には広範な司法権を握っており、ハンガリー王以外に同国の司法権をもつ唯一の役職であった。宮中伯として、ヴワディスワフはかなりの献身ぶりと統治能力を示した。彼は“Congregatio generalis”と呼ばれる、宮中の諸事を司る4つの委員会を創設した。この役職はヴワディスワフに莫大な収入をもたらしたが、同時にかなりの出費も余儀なくされた。 宮中伯職にある間もヴワディスワフはハンガリーの外交政策に関わり、1368年にはブルガリアに赴くなどしている。1370年にポーランド王カジミェシュ3世が死ぬと、ヴワディスワフは主君ラヨシュ1世がポーランド王位を獲得できるように奔走した。この功績に報いるため、ポーランド王となったラヨシュ1世はヴワディスワフにヴィエルニとチェンストホヴァを与えた。この時期までに、弟ボルコ3世は叔父のアルベルトからスチェルツェ・オポルスキェを相続しており、もう一人の弟ヘンリクは1365年に子供のないまま死んだため、ヴワディスワフはいまや自分の領国における単独の支配者となっていた。 1371年、ヴワディスワフはボヘミア王国に対する軍事遠征を指揮した(この遠征でモラヴィアはひどく荒廃した)。しかしこの遠征が原因で、ボヘミア王を兼ねる神聖ローマ皇帝カール4世は外交交渉の中で、ラヨシュ1世にヴワディスワフの宮中伯解任を要求、ラヨシュ1世は翌1372年にヴワディスワフを解任せざるを得なくなった。こうして1372年10月、ヴワディスワフは予期せずして宮中伯の地位を剥奪された。彼はハンガリー国内に所有する城や財産の大部分を保ったものの、その政治的影響力は大いに弱まってしまった。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヴワディスワフ・オポルチク」の詳細全文を読む スポンサード リンク
|