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ヴワディスワフ・エウゲニウシュ・シコルスキ(Władysław Eugeniusz Sikorski、1881年5月20日 - 1943年7月4日)は、ポーランドの政治家、軍人。ポーランド・ソビエト戦争時の「ヴィスワ川の奇跡」の立役者。戦前と第二次世界大戦中の亡命政権で首相を務める。 ソ連を撃退し世界中に名を馳せた名将でありながら、いっぽうで一貫した民主主義者かつ社会的な自由主義者で、あらゆる急進主義に反対した。ピウスツキとも対立し、他の穏健主義者と共にモルジュ戦線を立ち上げ、ポーランドの民主主義と穏健主義の伝統を守ろうと奔走した。〔英語・波蘭版に無い記載〕 シコルスキの政治的ゴールは、ポーランド・チェコスロバキア連合国(en)から始る中・東欧連合( Central and Eastern European federation、Międzymorze)だった〔Walter Lipgens (1985). Documents on the history of European integration: Plans for European union in Great Britain and in exile, 1939–1945 (including 107 documents in their original languages on 3 microfiches). Walter de Gruyter. p. 648. ISBN 978-3-11-009724-5. Retrieved 10 August 2011.〕。 Międzymorzeの中・東欧連合に参加招待された国は、バルト三国(リトアニア、ラトビア、エストニア)、フィンランド、ベラルーシ、ウクライナ、ハンガリー、ルーマニア、ユーゴスラビア、チェコスロバキア〔Fritz Taubert Mythos München: 2002 page 351 "... range détente with Germany and in the chance of creating a Polish-led "Third Europe" or "Intermarium" as illusory."〕。 == 来歴 == オーストリア=ハンガリー帝国ザンドミール(現在のシフィェンティクシシュ県市近郊の(現在のポトカルパチェ県)出身。1910年、オーストリア=ハンガリー帝国領内でポーランド人武装連盟「銃兵隊」を創設。1914年からガリツィア民族委員会委員、1916年からのその軍事部長。オーストリア=ハンガリー帝国の庇護下でのポーランド再建に賛成していた。 1918年、ポーランド軍に入隊。ポーランド・ソビエト戦争時、第5軍を指揮。1920年8月14日、第5軍はワルシャワの北にあるモドリンから出撃し、一日あたり30キロ以上の迅速な機動を行い、赤軍の攻撃を足止めし、赤軍を最終的に退却に追い込んだ。後に第3軍を指揮。 1921年、ポーランド軍参謀総長。1922年、首相兼軍事相、1924年、軍事相。1925年、軍管区司令官。ユゼフ・ピウスツキのクーデター後、1928年に罷免され、フランスに亡命。亡命先では穏健主義者の政治運動組織モルジュ戦線を設立した。 1939年~1943年、ポーランド亡命政府の初代首相となり、国防相兼ポーランド軍最高司令官としてフランス・ポーランド軍、ナチス・ドイツのフランス侵攻後はイギリスで西部ポーランド軍の指揮をとった。1941年7月30日、ソビエト連邦との国交回復及び軍事同盟条約に署名〔Jozef Garlinski Poland in the Second World War, ISBN 0-333-39258-2 Page 117〕〔Stanislaw Mikolajczyk The Pattern of Soviet Domination, Sampson Low, Marston & Co 1948, Page 18〕。ソ連との軍事協定に従ってヴワディスワフ・アンデルスの下でソ連領内に東部ポーランド軍がつくられる。1943年4月26日にカティンの森事件をめぐってソ連との国交が解消され、1943年7月4日にジブラルタルでの航空機事故で死亡。この事故を巡ってはヨシフ・スターリンやアドルフ・ヒトラーによる陰謀であるとの説が後を絶たない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ヴワディスワフ・シコルスキ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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