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一ツ山幹雄(ひとつやま みきお、1952年9月26日 -)は、静岡県富士市出身のレーサー。血液型A型。兄は一ツ山康。レーシングチーム一ツ山レーシングのオーナーであり自らステアリングを握る。 若い頃から地元の富士スピードウェイを中心にレースに参戦しており、星野一義らとも顔見知りであった。しかし、本業(運送、倉庫業)に専念するためレースの世界から手を引く。 その後、20年近く経った1990年代初めからBMW M3でGr.Aに復帰。プロをメインドライバーに迎え入れ兄・一ツ山康と交代で参戦。何度も表彰台に登る。 1994年からはそれまでのGr.Aに代わり開催されることとなったJTCCにBMW318iを投入。基本的には兄の康と交代で参戦。だが地元・富士スピードウェイで開催されたインターテックには兄の康とプライベーターながら2カー体制で参戦したことなどもあった。 1996年途中からはJTCCに加え、全日本GT選手権(JGTC)GT300クラスにも参戦を開始。こちらにもBMW3シリーズの2ドアクーペを投入。最終戦では3位表彰台を獲得している。 JTCCのシリーズ衰退を受け、1998年からはJGTCに専念。加藤寛規を迎え入れ、安定した速さを披露、GT300クラスシリーズ4位を獲得。 翌99年には加藤寛規に代わり伊藤大輔とコンビを組む。このシーズンはマシンの信頼性に苦しみ低迷した。さらに茂木ラウンドでは金曜のフリー走行中にマシントラブルからクラッシュ横転。マシンは全損となってしまった。 同年11月に行われた富士ル・マン1000kmには、マクラーレンF1GTRを投入。飯田章と兄の康と3人で参戦したが、マシントラブルによりリタイヤに終わる。 2000年からはこのマクラーレンF1GTRでJGTCのGT500クラスに参戦。中谷明彦とコンビを組む。 2002〜2003年はGT500クラスのマクラーレンはプロドライバーに任せ、GT300クラスにBMW M3を投入して参戦するも苦戦し、シーズン途中で参戦を取りやめてしまった。 2004〜2005年にはGT500クラスに新たにフェラーリ550マラネロを投入し、監督に。 2005年リニューアルオープンした富士スピードウェイを走りたいとの本人の意向で、マクラーレンF1GTRを復活させ、第6戦のみ田嶋栄一とコンビを組みスポット参戦。プロ以外のドライバーが自らの楽しみとしてGT500クラスに参戦したのはこれが最後とも言える。 2006年には、戦いの場をスーパーGT(旧JGTC)から新生JLMCに移し、ザイテック05Sとフェラーリ550マラネロで参戦。森脇基康と共に監督を務める。 2007年にはザイテックとフェラーリに加え、ポルシェ997GT3RSRも投入し、3台体制で参戦。JLMCでは欠かせないチームである。 最終戦岡山では久々にドライバーとして飯田章・藤井誠暢と共にフェラーリ550マラネロのステアリングを握り参戦。順調にタイムを刻み、クラス優勝を遂げた。 だが2007年限りでJLMCが終了してしまったため、一時的に活動の場を失ってしまうが、2009年から再びスーパーGTにアストンマーティンDBR9で一ツ山レーシングとして再びエントリーしている。詳細は一ツ山康を参照。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「一ツ山幹雄」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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