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一乗谷城の戦い(いちじょうだにじょうのたたかい)は、天正元年8月(1573年9月)に織田信長と朝倉義景の間で行なわれた戦国時代の合戦である。但し一乗谷城での攻防は極めて限定的であったため、激戦地の名を冠して刀根坂の戦い(とねざかのたたかい)とも呼ばれる。 == 小谷城包囲 == 織田信長と対立した室町幕府15代将軍足利義昭はいわゆる信長包囲網を形成して信長に対抗しようとした。浅井長政・朝倉義景はこの一員として信長と戦ったが、苦境に追い込まれていった。元亀4年(天正元年、1573年)4月、同じく包囲網の一員である武田信玄が死去し、7月には盟主の義昭が京都から追放されるなど(槇島城の戦い)、包囲網側は明らかに不利になった。 8月8日、信長は3万の大軍を率いて岐阜城を発ち近江に攻め入った。これに対して浅井長政は5,000人の軍勢をもって小谷城に籠城し、朝倉義景も家中の反対を押し切った上で、自ら2万の大軍を率いて長政救援のため、余呉に本陣を敷いた。ところが、長政の部将である山本山城主阿閉貞征が信長に寝返ったため、織田軍は月ヶ瀬城を落とし小谷城西側へ包囲を広げることが可能になった。また朝倉側も重臣魚住景固らが数年来の軍事疲弊を理由に出兵を拒否、やむなく義景自身が出兵するしかなくなるなど、この頃から織田方の内部工作および朝倉氏家中の闘争による崩壊の予兆が見て取れる。 義景は小谷城を後詰めすべく、小谷城の背後に位置する北西の田上山に戦陣を構築、同時に大嶽砦(城)などからなる小谷城守備の城砦群を築く。一方、織田軍本隊は10日に田上山と小谷城の間にある山田山に割って陣取り、朝倉方を盛んに挑発牽制した。信長方各部隊も各要衝に城砦、戦陣を構築し、小谷城および朝倉軍包囲を画策する。 12日、近江一帯を暴風雨が襲った。信長はこの暴風雨により敵が油断しているはずと判断し、これを好機と捉えたと考えられる。信長は本陣より自ら1,000人の手兵・馬廻のみを率いて軍を返し、朝倉方が守る大嶽砦を奇襲した。この砦は山田山から南に下がった位置にあり、小谷城を含む連山の小谷城よりも高所に位置し、朝倉軍の対織田軍に対する前線基地だった。 朝倉方は暴風雨の中を敵が攻め寄せてくるとは思っても見なかったために降伏してきた。これを討ち取ることもできたが、ここで信長は一計を案じ、捕えた敵兵をわざと解放し義景の陣へ向かわせた。義景は大獄砦の陥落を知れば必ずや撤退すると読み、そこを追撃しようというのである。信長は次に朝倉方の越前平泉寺僧兵が守備していた丁野城(砦)を襲って手中に収め、そこでも敵兵を解放した。 この2城に兵を配置した後、信長は「朝倉は必ず撤退する」と言い放ち、先手に佐久間信盛・柴田勝家・滝川一益・木下秀吉・丹羽長秀などを配置。好機を逃すことのないようにと何度も下知した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「一乗谷城の戦い」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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