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一向 俊聖(いっこう しゅんしょう、暦仁2年1月1日(1239年2月6日)? - 弘安10年11月18日(1287年12月24日)?)は、鎌倉時代の僧侶。伝記に謎が多く、実在が疑問視されていたが、考古遺物により、存在が証明された。 == 略歴 == 伝承によれば、筑後国西好田(福岡県久留米市か)の鎮西御家人草野家に生まれる。同家は久留米善導寺を建立した大檀越で、法然浄土教の影響を色濃く受けていた。書写山、南都などで修行したが悟りを得られず、鎌倉蓮華寺の然阿良忠の門弟となる。その後、各地を遊行回国し、踊り念仏(踊躍念佛)、天道念佛(もとは天童念佛と書いた。一説では京都で勤まる天道大日如来盆は、この天道念佛が起源という)を修し、道場を設けた。近江国番場蓮華寺にて立ち往生して最期を迎えたという。 主な門下に行蓮、礼智阿尊覚らがいる。弟子は列島各地に散在していた。 一向の詳しい伝記は『一向上人伝』という絵巻によるほかない。ただし番場蓮華寺を正統とする立場から、一向が活躍した時代よりずっと後の近世に書かれたと考えられる。したがって、同じ一向の系統を引く寺院の多い出羽国方面に伝わる伝承とはかなり異なる。浄土宗鎮西派ではなく西山派の僧であったとする『法水分流記』もある。そしていずれの伝承も、内容が説話化していて信憑性に欠けるところがあった。 しかし近年山形県天童市の高野坊遺跡より、応長元年(1311年)に「一向義空菩薩」二十七回忌をおこなったことを墨書した礫石経が多数出土し、一向の私称菩薩号が義空(儀空)であるという伝承に一致することから、一向の実在が立証された(ただし没年がずれることになる。弘安8年(1285年)か)。これは中世宗教史上、特筆すべきである。なお同時代に近い史料としては「一向上人臨終絵」(南北朝期、京都市個人蔵)がある。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「一向俊聖」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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