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一宇治城(いちうじじょう)は、薩摩国伊集院(現鹿児島県日置市伊集院町大田)に存在していた中世山城(日本の城)。 == 沿革 == 鎌倉時代に伊集院氏によって築城されたとされる。その後、本家の島津氏を凌ぐと言われた伊集院氏の権力を背景に拡充されたが、1450年(宝徳2年)3月、島津忠国は伊集院一族を追放、以後、島津氏配下の城となった。 1536年(天文5年)3月、島津家中の統一を目指していた島津忠良・貴久親子は先祖代々の居城であったが薩摩国西部にあり不便であった伊作城から、薩摩国中央部にあるこの城に拠点を移し、鹿児島の制圧を目指す。1545年(天文14年)、北郷氏、樺山氏など島津氏の有力分家の支持を得た貴久は、この城で薩摩国・大隅国・日向国3カ国の太守となり、悲願であった島津家中の統一を果たすのである。 1550年(天文19年)12月、名実共に島津氏宗家当主となった貴久は拠点を鹿児島の内城に移し、この城は地頭の管轄下に置かれることになった。初代地頭は島津右衛門大夫孝久〔この時代に「島津孝久」は島津氏の諸系図・史料に見あたらず、不詳。ただし伊集院忠棟は官名「右衛門大夫」を名乗っている。〕。永禄年間には町田久倍が地頭を務めている。江戸時代には薩摩藩内でも重要な外城とされた。ただし、慶長以降には日常的に城を整備・管理していたという史料が無く、実質的には廃城になっていたと考えられている。 1549年(天文18年)9月に貴久とフランシスコ・ザビエルが対面し日本で初めてキリスト教の正式な布教の許可がおりた場所として著名である〔ただし、清水城 (薩摩国)ではないかという異説もある。〕。また、島津義弘が鹿児島城築城を進めていた息子・家久に対して反対し、こちらの城を推薦していたことでも知られている。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「一宇治城」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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