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一星 ケミ(いちぼし ケミ、1947年8月21日 - )は、日本の女優である〔キネ旬, p.85.〕〔''一星ケミ''、''jlogos.com'', エア、2014年8月6日閲覧。〕〔国立国会図書館サーチ 検索結果、国立国会図書館、2014年8月6日閲覧。〕〔''一星ケミ''、東京国立近代美術館フィルムセンター、2014年8月6日閲覧。〕〔''一星ケミ''、日本映画情報システム、文化庁、2014年8月6日閲覧。〕〔''一星ケミ''、日本映画製作者連盟、2014年8月6日閲覧。〕〔''一星ケミ''、KINENOTE, 2014年8月6日閲覧。〕〔''一星ケミ''、日本映画データベース、2014年8月6日閲覧。〕〔''Kemi Ichiboshi'', インターネット・ムービー・データベース 、2014年8月6日閲覧。〕。本名は松下 昭子(まつした あきこ)〔〔〔。1961年(昭和36年)に上京して六本木野獣会に参加、秋山庄太郎に見いだされてモデルとなる〔。1966年(昭和41年)に女優に転身、成人映画界のトップスターとなった〔〔〔60年代まぼろしの官能女優たち 、ラピュタ阿佐ヶ谷、2014年8月6日閲覧。〕〔60年代まぼろしの官能女優たちPART II 、ラピュタ阿佐ヶ谷、2014年8月6日閲覧。〕〔上映プログラム 、神戸映画資料館、2011年9月付、2014年8月6日閲覧。〕〔上映プログラム 、神戸映画資料館、2011年10月付、2014年8月6日閲覧。〕〔上映プログラム 、神戸映画資料館、2013年2月付、2014年8月6日閲覧。〕。1973年(昭和48年)に引退した〔。石井輝男監督の『徳川女系図』(1968年)、あるいは向井寛監督の『暴行少女日記 ♀』(1968年)および『セックス女優残酷史』(1968年)、山本晋也監督の「女湯シリーズ」等の出演で知られる〔〔〔〔。寺山修司の戯曲『人力飛行機ソロモン』(1970年)のセリフにその名が引用されていることでも知られる〔三一書房, p.256.〕。 == 人物・来歴 == === 成人映画スターの時代 === 1947年(昭和22年)8月21日、佐賀県に生まれる〔〔〔。生家は質屋を営んでいた〔。 『日本映画俳優全集・女優編』(キネマ旬報社)によれば、1961年(昭和36年)に東京に移り、田辺靖雄(1945年 - )を中心に構成された六本木野獣会に参加、写真家の秋山庄太郎(1920年 - 2003年)にスカウトされてモデルとなった旨の記述があるが〔、この年には一星は中学二年生、満14歳である〔〔〔。同書、あるいは『芸能人物事典 明治大正昭和』(日外アソシエーツ)には、その前史として「高校卒業後、名古屋の中部日本放送や大阪の劇団創作座などに出演、名古屋の東海テレビに所属したこともある」と記されているが〔〔、一星が高等学校を卒業するのは、公称年齢に従う限り、1966年(昭和41年)3月である〔〔〔。モデルとしての一星は、化粧品のマネキン・ガール、日本大学藝術学部写真学科専属モデル、あるいは写真家の(1913年 – 2009年)や稲村隆正(1923年 - 1989年)のモデルを務めたという〔〔。秋山門下からは、一星のあとにデビューしたハニー・レーヌも成人映画を中心に映画出演した〔ハニー・レーヌ 、''jlogos.com'', エア、2014年8月6日閲覧。〕。 『日本映画俳優全集・女優編』によれば、同年5月に公開された『新妻のあやまち』(監督糸文弘)に主演して女優に転身、成人映画界にデビューしたとされる〔〔。日本映画データベースによれば、同作に先行して、同年3月に『石女 うまず女』(監督渡辺護)に出演し「ホステス」役を務めた記録が残っている〔。一星は『白日夢』(1964年)以降の1966年のデビューであり、『日本映画発達史』の田中純一郎は、同書のなかで黎明期の成人映画界のおもな出演者を挙げているが、一星についての言及はない〔田中, p.85-86.〕。「ファニー・フェイスと抜群のプロポーション」をもつ一星は、その後も「チャーミングでセンスのいい現代っ子」として、若松孝二監督の『性の放浪』(1967年)や『真昼の暴行劇』(1970年)、向井寛監督の『淫紋 処女妻姦通』(1967年)や『暴行少女日記 ♀』および『セックス女優残酷史』等の成人映画に登場した〔。俳優の久保新二の回想によれば、当時、一星は、白川和子や宮下順子らとともに、新宿区に所在した日宝プロダクションに所属していたという〔ピンク映画メモリー 、久保新二、2012年9月15日付、2014年8月6日閲覧。〕。同社は独立系映画製作を中心とした俳優のあっせんのほか、本木荘二郎が品川照二の名で監督した『㊙おさわり専科』(配給関東ムービー配給社、1971年)等の映画製作も行っていた〔〔年鑑, p.169.〕。 独立系プロダクションの作品のほか、1968年(昭和43年)5月1日には、東映京都撮影所が製作、石井輝男が監督、一星が出演して「おさわ」を演じた『徳川女系図』が公開されたが、同作には一星のほか、内田高子、谷ナオミ、火鳥こずえ、辰巳典子、祝真理ら、いわゆる独立系のピンク映画女優が多数出演しており、興行的に成功を収めた〔〔〔〔〔〔キネ旬, p.110.〕。『特別機動捜査隊』等のテレビ映画にもゲスト出演した〔。〔。同年3月1日に発行された専門誌『成人映画』第26号(現代工房)では、表紙の女優に選ばれた〔成人映画, p.表1.〕。 寺山修司が1970年(昭和45年)11月に初演した『市街劇 人力飛行機ソロモン』のなかの長いセリフのなかで「ミック・ジャガーを銭ゲバを一星ケミを飛ばしてやりたい ル・クレジオを銀嶺トルコのみどりをジャイアンツの柴田を飛ぱしてやりたい 都はるみをニジンスキーを三億円犯人を飛ばしてやりたい」とその名が織り込まれた〔。 山本晋也監督作には『恍惚の泉』(1967年)以来、多く出演していたが〔〔、1969年(昭和44年)6月公開の『女湯物語』(製作東京興映、配給新東宝興業)に始まるいわゆる「女湯シリーズ」には、久保新二によれば、シリーズ第2作『続・女湯 番台実話物語』以降、野上正義、白川和子、松浦康、堺勝朗、小島マリおよび久保らとともに、一星もレギュラー陣として出演していたという〔先輩の野上正義サンが亡くなってしまった 、久保新二、2010年12月26日付、2014年8月6日閲覧。〕。私生活では「クスリと酒に溺れた破滅型の女優」であったといい〔、当時、一星と4年間にわたり同棲していた久保新二によれば、最終的にはたこ八郎と3人暮らしになり、一星がリストカットをくりかえしたため、同居生活が解消になったという〔やべえ!明日はラピュタ阿佐ヶ谷で 、久保新二、2009年4月10日付、2014年8月6日閲覧。〕。 1973年(昭和48年)3月に公開された『ポルノ公害』(監督山本晋也)を最後に、同年、引退した〔〔〔〔〔〔〔〔。引退時には郷里から親が一星を引き取りに来て、同居していたたこ八郎のプロボクサー時代のチャンピオンベルトまで持って行ってしまったのだという〔。以降の消息は不明である。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「一星ケミ」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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