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一条 信龍(いちじょう のぶたつ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。甲斐国武田氏当主・武田信虎の八男(九男とする説もある〔 柴辻俊六 著『武田信虎のすべて』新人物往来社、2007年、p.40〕)。武田信玄の異母弟。武田二十四将の1人。甲斐市川郷上野城(山梨県市川三郷町上野)主。 == 生涯 == 信虎の末子とされる〔。系図類では河窪信実の弟とされているが、天正10年(1582年)に信龍の子・信就が右衛門大夫の官途を称し、信実の子・河窪信俊が新十郎の仮名しか称していないため、信龍の方が実は年長ではないかとも推定されている〔。 鎌倉時代に断絶していた甲斐源氏・武田信義の二男・一条忠頼を祖とする一条氏の名跡を継承する。親族衆として騎馬200騎(100騎とも)相備え組衆は依跡10騎、大津10騎を有し、本願寺及び松永久秀等畿内勢力との外交を担当した〔。信玄の遺言により勝頼の後見人となる。 戦闘時には、主に後衛を担当していたためか武名は伝わっていないが、『甲陽軍鑑』では、山県昌景、馬場信春など重鎮7人の武将のうちに数えられている〔。信玄の駿河国侵攻後、駿河田中城代を務めた〔。天正3年(1575年)の長篠の戦いにも参戦し、『甲陽軍鑑』によると佐久間勢に攻撃を加えて二重の柵を破るまでの活躍を見せ、敗走する友軍の中で馬場信春勢と戦場に留まり、勝頼の戦線離脱を見極めた後で退却している。後に田中城代を子信就に譲り、武田信堯(信友の子)と共に駿府城代に転じたという〔。 天正10年(1582年)の織田信長による甲州征伐では、2月に徳川軍の駿河侵攻を受け、3月2日に駿河を撤退して上野城に戻る〔。『甲陽軍鑑』によれば勝頼は3月3日に新府城(韮崎市)を焼き払うと郡内へ向かい、途中甲府の信龍屋敷で休息を取ったという〔『山梨県の地名』、p.298、〕。信龍は同方面より侵攻した徳川家康の三河勢に上野城を包囲され、3月10日、三河勢1万に対し手勢3百で突撃して信就と共に討死にした〔 笹本正治 著『武田信玄』ミネルヴァ書房、2005年、p.117〕〔。『信長公記』によると、天正10年(1582年)3月7日に武田信廉と共に斬首されたとあるが、これは兄の武田信基(上野介信友)の誤りとされる。ただし、信龍と信就は甲州崩れでは別行動を取っており、斬首されたのは信就の誤りとする説も存在する。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「一条信龍」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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