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一条 内政(いちじょう ただまさ)は、安土桃山時代の公家。土佐一条氏第6代当主。権中納言・一条兼定の嫡男。 == 生涯 == 一条兼定の嫡男として土佐国幡多郡中村に生まれる。名の「内」は宗家の一条内基(うちもと)からの偏諱とされる。ただし「内」の読みは異なる。 天正元年(1573年)9月に長宗我部元親に擁立されて父・兼定を追放して家督を継ぎ土佐国司となる。長岡郡大津城に移り、大津御所と称された。天正2年12月(1575年1月)従五位上・左近衛少将に叙任され、天正5年(1577年)従四位下・左近衛中将に至る。傀儡当主といわれるが、元親の娘を娶っていたためかある程度の領国経営を行い、弱体化した土佐一条家領の立て直しを図った。 『信長公記』天正8年6月26日条に明智光秀を介して織田信長に献上した長宗我部元親のことを「土佐国捕佐せしめ候長宗我部土佐守」と表現しているが、これは信長の織田政権が一条内政を土佐国主と認識していた、もしくは意図的に国主と認定することで陪臣である長宗我部元親の土佐支配を否認して信長ー内政ー元親の秩序に服従するように要求したと解する秋澤繁の説がある〔秋澤繁「織豊期長宗我部氏の一側面-土佐一条氏との関係(御所体制)をめぐって-」〕。 ところが天正9年(1581年)2月に、長宗我部氏家臣の波川清宗の謀叛に加わった嫌疑で伊予法華津に追放。同国の法華津氏や豊後大友氏に援助を求めるが、その地で病死した〔『土佐物語』羽林逝去の事〕とも、元親によって毒殺された〔『フロイス日本史』第1部106章〕ともいう。あるいは天正8年(1580年)5月に伊予国邊浦に放たれて殺害されたともされる〔。前述の秋澤説では長宗我部側からすれば信長が認めた土佐国主・一条内政の追放によって、元親は織田政権への服属拒否の姿勢を示し、両者の関係は断絶・交戦状態に入ったと解している〔。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「一条内政」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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