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一条 経通(いちじょう つねみち)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿。1336年の南北分裂後は北朝側に属し、北朝第2代光明天皇の下で、建武5年(暦応改元前、1338年)から暦応5年(康永改元前、1342年)まで関白を務め、同時に藤氏長者となった。 == 生涯 == 関白一条内経の長男。元亨元年(1321年)12月15日、5歳のときに元服し、正五位下に叙せられる。正中2年(1325年)に父が死去すると、一条家の当主となる。その後も順調に官位をすすめる(後掲)。元徳3年/元弘元年(1331年)、光厳天皇の即位を祝して正二位に叙せられるが、元弘3年/正慶2年(1333年)、後醍醐天皇が隠岐国から帰京し、光厳天皇の即位は無効とされ、その結果、光厳天皇の下でなされた正二位への昇叙も取り消された。ただし、翌年正月、あらためて正二位へ昇叙され、その翌年には内大臣となった。後醍醐天皇の親政による建武の新政は、武士層の反感を招き、建武3年(1336年)に足利尊氏軍が京の都を制圧することで瓦解し、8月15日には光明天皇が立てられた。両統迭立の伝統に従い、持明院統の光明天皇は大覚寺統である後醍醐天皇の皇子成良親王を皇太子とすると、経通は当時11歳の成良親王の傅に任ぜられた。その後は左大臣、関白を歴任した。 東福寺との関係が深く、土地の寄進のほか、関白辞任後の貞和3年(1347年)6月には、焼失していた本堂(仏殿)再建の上棟を行った。 貞治4年/正平20年(1365年)死去、享年49。法名は父の法名(芬陀利花院)から、後芬陀利花院とされた。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「一条経通」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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